て、僕も一つ診察を願おうかなと云ったら、河西君はとんだお客様だというような顔もせず、明日《あした》の十時頃いらっしゃいと親切に引き受けてくれた。ところが明日の十時頃になると、診察の事はまるで忘れてしまって、相変らず鳥打帽子を被《かぶ》って、強い日の下を焦《こ》げながら、駆《か》け廻った。
 橋本が、全体どこまで行くつもりなんだいと聞くから、そうさまあ哈爾賓《ハルピン》ぐらいまで行かなくっちゃ義理が悪いようだなと答えたが、その橋本はどうする料簡《りょうけん》かちっとも分らない。考えて見ると、内地ではもう九月の学期が始《はじま》って、教授連がそろそろ講義に取りかかる頃である。君はこれからどうするんだと反問して見た。さあ僕も哈爾賓ぐらいまで行って見たいのだが、何しろ六月から学校を空《あ》けているんだからねと決心しかねている。かように義務心の強い男を唆《そその》かして見当違の方角へ連れて行ったのは、全く余の力である。その代り哈爾賓を見て奉天へ帰るや否や、橋本は札幌《さっぽろ》から電報をかけられた。いよいよ催促を受けたと電報を見ながら苦笑しているので、いいや、急ぎ帰りつつありとかけておくさと、他《ひと》の事だからはなはだ洒落《しゃらく》な助言《じょごん》をした。
 橋本がいよいよいっしょに北へ行くと云う事になってから、余はすべてのプログラムを橋本に委任してぶらぶらしていた。橋本は汽車の時間表を見たり、宿泊地の里程を計算したり二三日の間はしきりに手帳へ鉛筆で何か付け込んでいた。ときどき、おいどうも旨《うま》く行かんよ、ここを火曜の急行で出るとするとなどと相談を掛けるから、いいさ火曜がいけなければ水曜の急行にしようと、まるで無学な事を云っているので、橋本も呆《あき》れていた。よく聞いて見て始めて了解したが、実は哈爾賓《ハルピン》へ接続する急行は、一週にたった二回しかないのだそうである。普通の客車《かくしゃ》でも、京浜間のようにむやみには出ない。一日にわずか二度か三度らしい。だから君のように呑気《のんき》な事を云ったって駄目《だめ》だよと橋本から叱られた。なるほど駄目である。しかも余の駄目は汽車にとどまらない。地理|道程《みちのり》に至っても悉皆《しっかい》真闇《まっくら》であった。さすが遼陽《りょうよう》だの奉天だのと云う名前は覚えているが、それがどの辺にあって、どっちが近いのだ
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