文鳥
夏目漱石

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)伽藍《がらん》

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)十月|早稲田《わせだ》に移る。

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 十月|早稲田《わせだ》に移る。伽藍《がらん》のような書斎にただ一人、片づけた顔を頬杖《ほおづえ》で支えていると、三重吉《みえきち》が来て、鳥を御|飼《か》いなさいと云う。飼ってもいいと答えた。しかし念のためだから、何を飼うのかねと聞いたら、文鳥《ぶんちょう》ですと云う返事であった。
 文鳥は三重吉の小説に出て来るくらいだから奇麗《きれい》な鳥に違なかろうと思って、じゃ買ってくれたまえと頼んだ。ところが三重吉は是非御飼いなさいと、同じような事を繰り返している。うむ買うよ買うよとやはり頬杖を突いたままで、むにゃむにゃ云ってるうちに三重吉は黙ってしまった。おおかた頬杖に愛想を尽かしたんだろうと、この時始めて気がついた。
 すると三分ばかりして、今度は籠《かご》を御買いなさいと云いだした。これも宜《よろ》しいと答えると、是非御買いなさいと念を押す代りに、鳥籠の講釈を始めた。その講釈はだいぶ込《こ》み入《い》ったものであったが、気の毒な事に、みんな忘れてしまった。ただ好いのは二十円ぐらいすると云う段になって、急にそんな高価《たかい》のでなくっても善《よ》かろうと云っておいた。三重吉はにやにやしている。
 それから全体どこで買うのかと聞いて見ると、なにどこの鳥屋にでもありますと、実に平凡な答をした。籠はと聞き返すと、籠ですか、籠はその何ですよ、なにどこにかあるでしょう、とまるで雲を攫《つか》むような寛大な事を云う。でも君あてがなくっちゃいけなかろうと、あたかもいけないような顔をして見せたら、三重吉は頬《ほっ》ぺたへ手をあてて、何でも駒込に籠の名人があるそうですが、年寄だそうですから、もう死んだかも知れませんと、非常に心細くなってしまった。
 何しろ言いだしたものに責任を負わせるのは当然の事だから、さっそく万事を三重吉に依頼する事にした。すると、すぐ金を出せと云う。金はたしかに出した。三重吉はどこで買ったか、七子《ななこ》の三《み》つ折《おれ》の紙入を懐中していて、人の金でも自分の金でも悉皆《しっかい》この紙入の中に入れる癖がある。自分は三重吉が五円札をたしかにこの紙入の底へ押し込んだのを目撃した。
 かようにして金はたしかに三重吉の手に落ちた。しかし鳥と籠《かご》とは容易にやって来ない。
 そのうち秋が小春《こはる》になった。三重吉はたびたび来る。よく女の話などをして帰って行く。文鳥と籠の講釈は全く出ない。硝子戸《ガラスど》を透《すか》して五尺の縁側《えんがわ》には日が好く当る。どうせ文鳥を飼うなら、こんな暖かい季節に、この縁側へ鳥籠を据《す》えてやったら、文鳥も定めし鳴き善《よ》かろうと思うくらいであった。
 三重吉の小説によると、文鳥は千代《ちよ》千代と鳴くそうである。その鳴き声がだいぶん気に入ったと見えて、三重吉は千代千代を何度となく使っている。あるいは千代と云う女に惚《ほ》れていた事があるのかも知れない。しかし当人はいっこうそんな事を云わない。自分も聞いてみない。ただ縁側に日が善く当る。そうして文鳥が鳴かない。
 そのうち霜《しも》が降り出した。自分は毎日|伽藍《がらん》のような書斎に、寒い顔を片づけてみたり、取乱してみたり、頬杖を突いたりやめたりして暮していた。戸は二重《にじゅう》に締め切った。火鉢《ひばち》に炭ばかり継《つ》いでいる。文鳥はついに忘れた。
 ところへ三重吉が門口《かどぐち》から威勢よく這入《はい》って来た。時は宵《よい》の口《くち》であった。寒いから火鉢の上へ胸から上を翳《かざ》して、浮かぬ顔をわざとほてらしていたのが、急に陽気になった。三重吉は豊隆《ほうりゅう》を従えている。豊隆はいい迷惑である。二人が籠を一つずつ持っている。その上に三重吉が大きな箱を兄《あに》き分《ぶん》に抱《かか》えている。五円札が文鳥と籠と箱になったのはこの初冬《はつふゆ》の晩であった。
 三重吉は大得意である。まあ御覧なさいと云う。豊隆その洋灯《ランプ》をもっとこっちへ出せなどと云う。そのくせ寒いので鼻の頭が少し紫色《むらさきいろ》になっている。
 なるほど立派な籠ができた。台が漆《うるし》で塗ってある。竹は細く削《けず》った上に、色が染《つ》けてある。それで三円だと云う。安いなあ豊隆と云っている。豊隆はうん安いと云っている。自分は安いか高いか判然と判《わか》らないが、まあ安いなあと云っている。好いのになると二十円もするそうですと云う。二十円はこれで二返目《にへんめ》である。二十円に比べて安いのは無論である。
 この漆はね、先生、日向《ひなた》へ出して曝《さら》しておくうちに黒味《くろみ》が取れてだんだん朱《しゅ》の色が出て来ますから、――そうしてこの竹は一返《いっぺん》善く煮たんだから大丈夫ですよなどと、しきりに説明をしてくれる。何が大丈夫なのかねと聞き返すと、まあ鳥を御覧なさい、奇麗《きれい》でしょうと云っている。
 なるほど奇麗だ。次《つぎ》の間《ま》へ籠を据えて四尺ばかりこっちから見ると少しも動かない。薄暗い中に真白に見える。籠の中にうずくまっていなければ鳥とは思えないほど白い。何だか寒そうだ。
 寒いだろうねと聞いてみると、そのために箱を作ったんだと云う。夜になればこの箱に入れてやるんだと云う。籠《かご》が二つあるのはどうするんだと聞くと、この粗末な方へ入れて時々|行水《ぎょうずい》を使わせるのだと云う。これは少し手数《てすう》が掛るなと思っていると、それから糞《ふん》をして籠を汚《よご》しますから、時々|掃除《そうじ》をしておやりなさいとつけ加えた。三重吉は文鳥のためにはなかなか強硬である。
 それをはいはい引受けると、今度は三重吉が袂《たもと》から粟《あわ》を一袋出した。これを毎朝食わせなくっちゃいけません。もし餌《え》をかえてやらなければ、餌壺《えつぼ》を出して殻《から》だけ吹いておやんなさい。そうしないと文鳥が実《み》のある粟を一々拾い出さなくっちゃなりませんから。水も毎朝かえておやんなさい。先生は寝坊だからちょうど好いでしょうと大変文鳥に親切を極《きわ》めている。そこで自分もよろしいと万事受合った。ところへ豊隆が袂から餌壺と水入を出して行儀よく自分の前に並べた。こういっさい万事を調《ととの》えておいて、実行を逼《せま》られると、義理にも文鳥の世話をしなければならなくなる。内心ではよほど覚束《おぼつか》なかったが、まずやってみようとまでは決心した。もしできなければ家《うち》のものが、どうかするだろうと思った。
 やがて三重吉は鳥籠を叮嚀《ていねい》に箱の中へ入れて、縁側《えんがわ》へ持ち出して、ここへ置きますからと云って帰った。自分は伽藍《がらん》のような書斎の真中に床を展《の》べて冷《ひやや》かに寝た。夢に文鳥を背負《しょ》い込《こ》んだ心持は、少し寒かったが眠《ねぶ》ってみれば不断《ふだん》の夜《よる》のごとく穏かである。
 翌朝《よくあさ》眼が覚《さ》めると硝子戸《ガラスど》に日が射している。たちまち文鳥に餌《え》をやらなければならないなと思った。けれども起きるのが退儀《たいぎ》であった。今にやろう、今にやろうと考えているうちに、とうとう八時過になった。仕方がないから顔を洗うついでをもって、冷たい縁を素足《すあし》で踏みながら、箱の葢《ふた》を取って鳥籠を明海《あかるみ》へ出した。文鳥は眼をぱちつかせている。もっと早く起きたかったろうと思ったら気の毒になった。
 文鳥の眼は真黒である。瞼《まぶた》の周囲《まわり》に細い淡紅色《ときいろ》の絹糸を縫いつけたような筋《すじ》が入っている。眼をぱちつかせるたびに絹糸が急に寄って一本になる。と思うとまた丸くなる。籠を箱から出すや否や、文鳥は白い首をちょっと傾《かたぶ》けながらこの黒い眼を移して始めて自分の顔を見た。そうしてちちと鳴いた。
 自分は静かに鳥籠を箱の上に据《す》えた。文鳥はぱっと留《とま》り木《ぎ》を離れた。そうしてまた留り木に乗った。留り木は二本ある。黒味がかった青軸《あおじく》をほどよき距離に橋と渡して横に並べた。その一本を軽く踏まえた足を見るといかにも華奢《きゃしゃ》にできている。細長い薄紅《うすくれない》の端に真珠を削《けず》ったような爪が着いて、手頃な留り木を甘《うま》く抱《かか》え込《こ》んでいる。すると、ひらりと眼先が動いた。文鳥はすでに留り木の上で方向《むき》を換えていた。しきりに首を左右に傾《かたぶ》ける。傾けかけた首をふと持ち直して、心持前へ伸《の》したかと思ったら、白い羽根がまたちらりと動いた。文鳥の足は向うの留り木の真中あたりに具合よく落ちた。ちちと鳴く。そうして遠くから自分の顔を覗《のぞ》き込んだ。
 自分は顔を洗いに風呂場《ふろば》へ行った。帰りに台所へ廻って、戸棚《とだな》を明けて、昨夕《ゆうべ》三重吉の買って来てくれた粟の袋を出して、餌壺の中へ餌を入れて、もう一つには水を一杯入れて、また書斎の縁側へ出た。
 三重吉は用意周到な男で、昨夕《ゆうべ》叮嚀《ていねい》に餌《え》をやる時の心得を説明して行った。その説によると、むやみに籠の戸を明けると文鳥が逃げ出してしまう。だから右の手で籠の戸を明けながら、左の手をその下へあてがって、外から出口を塞《ふさ》ぐようにしなくっては危険だ。餌壺《えつぼ》を出す時も同じ心得でやらなければならない。とその手つきまでして見せたが、こう両方の手を使って、餌壺をどうして籠の中へ入れる事ができるのか、つい聞いておかなかった。
 自分はやむをえず餌壺を持ったまま手の甲で籠の戸をそろりと上へ押し上げた。同時に左の手で開《あ》いた口をすぐ塞《ふさ》いだ。鳥はちょっと振り返った。そうして、ちちと鳴いた。自分は出口を塞いだ左の手の処置に窮した。人の隙《すき》を窺《うかが》って逃げるような鳥とも見えないので、何となく気の毒になった。三重吉は悪い事を教えた。
 大きな手をそろそろ籠の中へ入れた。すると文鳥は急に羽搏《はばたき》を始めた。細く削《けず》った竹の目から暖かいむく毛が、白く飛ぶほどに翼《つばさ》を鳴らした。自分は急に自分の大きな手が厭《いや》になった。粟《あわ》の壺と水の壺を留り木の間にようやく置くや否や、手を引き込ました。籠の戸ははたりと自然《ひとりで》に落ちた。文鳥は留り木の上に戻った。白い首を半《なか》ば横に向けて、籠の外にいる自分を見上げた。それから曲げた首を真直《まっすぐ》にして足の下《もと》にある粟と水を眺めた。自分は食事をしに茶の間へ行った。
 その頃は日課として小説を書いている時分であった。飯と飯の間はたいてい机に向って筆を握っていた。静かな時は自分で紙の上を走るペンの音を聞く事ができた。伽藍《がらん》のような書斎へは誰も這入《はい》って来ない習慣であった。筆の音に淋《さび》しさと云う意味を感じた朝も昼も晩もあった。しかし時々はこの筆の音がぴたりとやむ、またやめねばならぬ、折もだいぶあった。その時は指の股《また》に筆を挟《はさ》んだまま手の平《ひら》へ顎《あご》を載せて硝子越《ガラスごし》に吹き荒れた庭を眺めるのが癖《くせ》であった。それが済むと載せた顎を一応|撮《つま》んで見る。それでも筆と紙がいっしょにならない時は、撮んだ顎を二本の指で伸《の》して見る。すると縁側《えんがわ》で文鳥がたちまち千代《ちよ》千代と二声鳴いた。
 筆を擱《お》いて、そっと出て見ると、文鳥は自分の方を向いたまま、留《とま》り木《ぎ》の上から、のめりそうに白い胸を突き出して、高く千代と云った。三重吉が聞いたらさぞ喜ぶだろうと思うほどな美《い》い声で千代と云った。三重吉は今に馴《な》れると千代と鳴きますよ、きっと鳴きますよ、と受合って帰って行った。
 自分はまた籠の傍《そば》へしゃがんだ。文鳥は膨《ふ
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