く》らんだ首を二三度|竪横《たてよこ》に向け直した。やがて一団《ひとかたまり》の白い体がぽいと留り木の上を抜け出した。と思うと奇麗《きれい》な足の爪が半分ほど餌壺《えつぼ》の縁《ふち》から後《うしろ》へ出た。小指を掛けてもすぐ引《ひ》っ繰《く》り返《かえ》りそうな餌壺は釣鐘《つりがね》のように静かである。さすがに文鳥は軽いものだ。何だか淡雪《あわゆき》の精《せい》のような気がした。
 文鳥はつと嘴《くちばし》を餌壺の真中に落した。そうして二三度左右に振った。奇麗に平《なら》して入れてあった粟がはらはらと籠の底に零《こぼ》れた。文鳥は嘴《くちばし》を上げた。咽喉《のど》の所で微《かすか》な音がする。また嘴を粟の真中に落す。また微な音がする。その音が面白い。静かに聴いていると、丸くて細《こま》やかで、しかも非常に速《すみや》かである。菫《すみれ》ほどな小さい人が、黄金《こがね》の槌《つち》で瑪瑙《めのう》の碁石《ごいし》でもつづけ様に敲《たた》いているような気がする。
 嘴《くちばし》の色を見ると紫《むらさき》を薄く混《ま》ぜた紅《べに》のようである。その紅がしだいに流れて、粟《あわ》をつつく口尖《くちさき》の辺《あたり》は白い。象牙《ぞうげ》を半透明にした白さである。この嘴が粟の中へ這入《はい》る時は非常に早い。左右に振り蒔《ま》く粟の珠《たま》も非常に軽そうだ。文鳥は身を逆《さか》さまにしないばかりに尖《とが》った嘴を黄色い粒の中に刺し込んでは、膨《ふ》くらんだ首を惜気《おしげ》もなく右左へ振る。籠の底に飛び散る粟の数は幾粒だか分らない。それでも餌壺《えつぼ》だけは寂然《せきぜん》として静かである。重いものである。餌壺の直径は一寸五分ほどだと思う。
 自分はそっと書斎へ帰って淋《さび》しくペンを紙の上に走らしていた。縁側《えんがわ》では文鳥がちちと鳴く。折々は千代千代とも鳴く。外では木枯《こがらし》が吹いていた。
 夕方には文鳥が水を飲むところを見た。細い足を壺の縁《ふち》へ懸《か》けて、小《ちさ》い嘴に受けた一雫《ひとしずく》を大事そうに、仰向《あおむ》いて呑《の》み下《くだ》している。この分では一杯の水が十日ぐらい続くだろうと思ってまた書斎へ帰った。晩には箱へしまってやった。寝る時|硝子戸《ガラスど》から外を覗《のぞ》いたら、月が出て、霜《しも》が降っていた。文鳥は箱の中でことりともしなかった。
 明《あく》る日《ひ》もまた気の毒な事に遅く起きて、箱から籠を出してやったのは、やっぱり八時過ぎであった。箱の中ではとうから目が覚《さ》めていたんだろう。それでも文鳥はいっこう不平らしい顔もしなかった。籠が明るい所へ出るや否や、いきなり眼をしばたたいて、心持首をすくめて、自分の顔を見た。
 昔《むか》し美しい女を知っていた。この女が机に凭《もた》れて何か考えているところを、後《うしろ》から、そっと行って、紫の帯上《おびあ》げの房《ふさ》になった先を、長く垂らして、頸筋《くびすじ》の細いあたりを、上から撫《な》で廻《まわ》したら、女はものう気《げ》に後を向いた。その時女の眉《まゆ》は心持八の字に寄っていた。それで眼尻と口元には笑が萌《きざ》していた。同時に恰好《かっこう》の好い頸を肩まですくめていた。文鳥が自分を見た時、自分はふとこの女の事を思い出した。この女は今嫁に行った。自分が紫の帯上でいたずらをしたのは縁談のきまった二三日|後《あと》である。
 餌壺にはまだ粟が八分通り這入っている。しかし殻《から》もだいぶ混っていた。水入には粟の殻が一面に浮いて、苛《いた》く濁っていた。易《か》えてやらなければならない。また大きな手を籠の中へ入れた。非常に要心して入れたにもかかわらず、文鳥は白い翼《つばさ》を乱して騒いだ。小い羽根が一本抜けても、自分は文鳥にすまないと思った。殻は奇麗に吹いた。吹かれた殻は木枯がどこかへ持って行った。水も易えてやった。水道の水だから大変冷たい。
 その日は一日淋しいペンの音を聞いて暮した。その間には折々千代千代と云う声も聞えた。文鳥も淋しいから鳴くのではなかろうかと考えた。しかし縁側《えんがわ》へ出て見ると、二本の留《とま》り木《ぎ》の間を、あちらへ飛んだり、こちらへ飛んだり、絶間《たえま》なく行きつ戻りつしている。少しも不平らしい様子はなかった。
 夜は箱へ入れた。明《あく》る朝《あさ》目が覚《さ》めると、外は白い霜《しも》だ。文鳥も眼が覚めているだろうが、なかなか起きる気にならない。枕元にある新聞を手に取るさえ難儀《なんぎ》だ。それでも煙草《たばこ》は一本ふかした。この一本をふかしてしまったら、起きて籠から出してやろうと思いながら、口から出る煙《けぶり》の行方《ゆくえ》を見つめていた。するとこの煙の中に、首をすくめた、眼を細くした、しかも心持|眉《まゆ》を寄せた昔の女の顔がちょっと見えた。自分は床の上に起き直った。寝巻の上へ羽織《はおり》を引掛《ひっか》けて、すぐ縁側へ出た。そうして箱の葢《ふた》をはずして、文鳥を出した。文鳥は箱から出ながら千代千代と二声鳴いた。
 三重吉の説によると、馴《な》れるにしたがって、文鳥が人の顔を見て鳴くようになるんだそうだ。現に三重吉の飼っていた文鳥は、三重吉が傍《そば》にいさえすれば、しきりに千代千代と鳴きつづけたそうだ。のみならず三重吉の指の先から餌《え》を食べると云う。自分もいつか指の先で餌をやって見たいと思った。
 次の朝はまた怠《なま》けた。昔の女の顔もつい思い出さなかった。顔を洗って、食事を済まして、始めて、気がついたように縁側《えんがわ》へ出て見ると、いつの間にか籠が箱の上に乗っている。文鳥はもう留《とま》り木《ぎ》の上を面白そうにあちら、こちらと飛び移っている。そうして時々は首を伸《の》して籠の外を下の方から覗《のぞ》いている。その様子がなかなか無邪気である。昔紫の帯上《おびあげ》でいたずらをした女は襟《えり》の長い、背のすらりとした、ちょっと首を曲げて人を見る癖《くせ》があった。
 粟《あわ》はまだある。水もまだある。文鳥は満足している。自分は粟も水も易《か》えずに書斎へ引込《ひっこ》んだ。
 昼過ぎまた縁側へ出た。食後の運動かたがた、五六間の廻り縁を、あるきながら書見するつもりであった。ところが出て見ると粟がもう七分がた尽きている。水も全く濁ってしまった。書物を縁側へ抛《ほう》り出しておいて、急いで餌《え》と水を易えてやった。
 次の日もまた遅く起きた。しかも顔を洗って飯を食うまでは縁側を覗かなかった。書斎に帰ってから、あるいは昨日《きのう》のように、家人《うちのもの》が籠を出しておきはせぬかと、ちょっと縁へ顔だけ出して見たら、はたして出してあった。その上餌も水も新しくなっていた。自分はやっと安心して首を書斎に入れた。途端《とたん》に文鳥は千代千代と鳴いた。それで引込《ひっこ》めた首をまた出して見た。けれども文鳥は再び鳴かなかった。けげんな顔をして硝子越《ガラスごし》に庭の霜《しも》を眺めていた。自分はとうとう机の前に帰った。
 書斎の中では相変らずペンの音がさらさらする。書きかけた小説はだいぶんはかどった。指の先が冷たい。今朝|埋《い》けた佐倉炭《さくらずみ》は白くなって、薩摩五徳《さつまごとく》に懸《か》けた鉄瓶《てつびん》がほとんど冷《さ》めている。炭取は空《から》だ。手を敲《たた》いたがちょっと台所まで聴《きこ》えない。立って戸を明けると、文鳥は例に似ず留《とま》り木《ぎ》の上にじっと留っている。よく見ると足が一本しかない。自分は炭取を縁に置いて、上からこごんで籠の中を覗き込んだ。いくら見ても足は一本しかない。文鳥はこの華奢《きゃしゃ》な一本の細い足に総身《そうみ》を託して黙然《もくねん》として、籠の中に片づいている。
 自分は不思議に思った。文鳥について万事を説明した三重吉もこの事だけは抜いたと見える。自分が炭取に炭を入れて帰った時、文鳥の足はまだ一本であった。しばらく寒い縁側に立って眺めていたが、文鳥は動く気色《けしき》もない。音を立てないで見つめていると、文鳥は丸い眼をしだいに細くし出した。おおかた眠《ねむ》たいのだろうと思って、そっと書斎へ這入ろうとして、一歩足を動かすや否や、文鳥はまた眼を開《あ》いた。同時に真白な胸の中から細い足を一本出した。自分は戸を閉《た》てて火鉢《ひばち》へ炭をついだ。
 小説はしだいに忙《いそが》しくなる。朝は依然として寝坊をする。一度|家《うち》のものが文鳥の世話をしてくれてから、何だか自分の責任が軽くなったような心持がする。家のものが忘れる時は、自分が餌《え》をやる水をやる。籠《かご》の出し入れをする。しない時は、家のものを呼んでさせる事もある。自分はただ文鳥の声を聞くだけが役目のようになった。
 それでも縁側《えんがわ》へ出る時は、必ず籠の前へ立留《たちどま》って文鳥の様子を見た。たいていは狭い籠を苦《く》にもしないで、二本の留り木を満足そうに往復していた。天気の好い時は薄い日を硝子越《ガラスごし》に浴びて、しきりに鳴き立てていた。しかし三重吉の云ったように、自分の顔を見てことさらに鳴く気色はさらになかった。
 自分の指からじかに餌《え》を食うなどと云う事は無論なかった。折々|機嫌《きげん》のいい時は麺麭《パン》の粉《こ》などを人指指《ひとさしゆび》の先へつけて竹の間からちょっと出して見る事があるが文鳥はけっして近づかない。少し無遠慮に突き込んで見ると、文鳥は指の太いのに驚いて白い翼《つばさ》を乱して籠の中を騒ぎ廻るのみであった。二三度試みた後《のち》、自分は気の毒になって、この芸だけは永久に断念してしまった。今の世にこんな事のできるものがいるかどうだかはなはだ疑わしい。おそらく古代の聖徒《せいんと》の仕事だろう。三重吉は嘘《うそ》を吐《つ》いたに違ない。
 或日の事、書斎で例のごとくペンの音を立てて侘《わ》びしい事を書き連《つら》ねていると、ふと妙な音が耳に這入《はい》った。縁側でさらさら、さらさら云う。女が長い衣《きぬ》の裾《すそ》を捌《さば》いているようにも受取られるが、ただの女のそれとしては、あまりに仰山《ぎょうさん》である。雛段《ひなだん》をあるく、内裏雛《だいりびな》の袴《はかま》の襞《ひだ》の擦《す》れる音とでも形容したらよかろうと思った。自分は書きかけた小説をよそにして、ペンを持ったまま縁側へ出て見た。すると文鳥が行水《ぎょうずい》を使っていた。
 水はちょうど易《か》え立《た》てであった。文鳥は軽い足を水入の真中に胸毛《むなげ》まで浸《ひた》して、時々は白い翼《つばさ》を左右にひろげながら、心持水入の中にしゃがむように腹を圧《お》しつけつつ、総身《そうみ》の毛を一度に振《ふ》っている。そうして水入の縁《ふち》にひょいと飛び上る。しばらくしてまた飛び込む。水入の直径は一寸五分ぐらいに過ぎない。飛び込んだ時は尾も余り、頭も余り、背は無論余る。水に浸《つ》かるのは足と胸だけである。それでも文鳥は欣然《きんぜん》として行水《ぎょうずい》を使っている。
 自分は急に易籠《かえかご》を取って来た。そうして文鳥をこの方へ移した。それから如露《じょろ》を持って風呂場へ行って、水道の水を汲《く》んで、籠の上からさあさあとかけてやった。如露《じょろ》の水が尽きる頃には白い羽根から落ちる水が珠《たま》になって転《ころ》がった。文鳥は絶えず眼をぱちぱちさせていた。
 昔紫の帯上《おびあげ》でいたずらをした女が、座敷で仕事をしていた時、裏二階から懐中鏡《ふところかがみ》で女の顔へ春の光線を反射させて楽しんだ事がある。女は薄紅《うすあか》くなった頬を上げて、繊《ほそ》い手を額の前に翳《かざ》しながら、不思議そうに瞬《まばたき》をした。この女とこの文鳥とはおそらく同じ心持だろう。
 日数《ひかず》が立つにしたがって文鳥は善《よ》く囀《さえ》ずる。しかしよく忘れられる。或る時は餌壺《えつぼ》が粟《あわ》
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