の殻《から》だけになっていた事がある。ある時は籠《かご》の底が糞《ふん》でいっぱいになっていた事がある。ある晩宴会があって遅く帰ったら、冬の月が硝子越《ガラスごし》に差し込んで、広い縁側《えんがわ》がほの明るく見えるなかに、鳥籠がしんとして、箱の上に乗っていた。その隅《すみ》に文鳥の体が薄白く浮いたまま留《とま》り木《ぎ》の上に、有るか無きかに思われた。自分は外套《がいとう》の羽根《はね》を返して、すぐ鳥籠を箱のなかへ入れてやった。
 翌日文鳥は例のごとく元気よく囀《さえず》っていた。それからは時々寒い夜《よる》も箱にしまってやるのを忘れることがあった。ある晩いつもの通り書斎で専念にペンの音を聞いていると、突然縁側の方でがたりと物の覆《くつがえ》った音がした。しかし自分は立たなかった。依然として急ぐ小説を書いていた。わざわざ立って行って、何でもないといまいましいから、気にかからないではなかったが、やはりちょっと聞耳《ききみみ》を立てたまま知らぬ顔ですましていた。その晩寝たのは十二時過ぎであった。便所に行ったついで、気がかりだから、念のため一応縁側へ廻って見ると――
 籠は箱の上から落ちている。そうして横に倒れている。水入《みずいれ》も餌壺《えつぼ》も引繰返《ひっくりかえ》っている。粟《あわ》は一面に縁側に散らばっている。留り木は抜け出している。文鳥はしのびやかに鳥籠の桟《さん》にかじりついていた。自分は明日《あした》から誓ってこの縁側に猫を入れまいと決心した。
 翌日《あくるひ》文鳥は鳴かなかった。粟を山盛《やまもり》入れてやった。水を漲《みなぎ》るほど入れてやった。文鳥は一本足のまま長らく留り木の上を動かなかった。午飯《ひるめし》を食ってから、三重吉に手紙を書こうと思って、二三行書き出すと、文鳥がちちと鳴いた。自分は手紙の筆を留めた。文鳥がまたちちと鳴いた。出て見たら粟も水もだいぶん減っている。手紙はそれぎりにして裂いて捨てた。
 翌日《よくじつ》文鳥がまた鳴かなくなった。留り木を下りて籠の底へ腹を圧《お》しつけていた。胸の所が少し膨《ふく》らんで、小さい毛が漣《さざなみ》のように乱れて見えた。自分はこの朝、三重吉から例の件で某所まで来てくれと云う手紙を受取った。十時までにと云う依頼であるから、文鳥をそのままにしておいて出た。三重吉に逢《あ》って見ると例の件がいろ
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