鳥は箱の中でことりともしなかった。
 明《あく》る日《ひ》もまた気の毒な事に遅く起きて、箱から籠を出してやったのは、やっぱり八時過ぎであった。箱の中ではとうから目が覚《さ》めていたんだろう。それでも文鳥はいっこう不平らしい顔もしなかった。籠が明るい所へ出るや否や、いきなり眼をしばたたいて、心持首をすくめて、自分の顔を見た。
 昔《むか》し美しい女を知っていた。この女が机に凭《もた》れて何か考えているところを、後《うしろ》から、そっと行って、紫の帯上《おびあ》げの房《ふさ》になった先を、長く垂らして、頸筋《くびすじ》の細いあたりを、上から撫《な》で廻《まわ》したら、女はものう気《げ》に後を向いた。その時女の眉《まゆ》は心持八の字に寄っていた。それで眼尻と口元には笑が萌《きざ》していた。同時に恰好《かっこう》の好い頸を肩まですくめていた。文鳥が自分を見た時、自分はふとこの女の事を思い出した。この女は今嫁に行った。自分が紫の帯上でいたずらをしたのは縁談のきまった二三日|後《あと》である。
 餌壺にはまだ粟が八分通り這入っている。しかし殻《から》もだいぶ混っていた。水入には粟の殻が一面に浮いて、苛《いた》く濁っていた。易《か》えてやらなければならない。また大きな手を籠の中へ入れた。非常に要心して入れたにもかかわらず、文鳥は白い翼《つばさ》を乱して騒いだ。小い羽根が一本抜けても、自分は文鳥にすまないと思った。殻は奇麗に吹いた。吹かれた殻は木枯がどこかへ持って行った。水も易えてやった。水道の水だから大変冷たい。
 その日は一日淋しいペンの音を聞いて暮した。その間には折々千代千代と云う声も聞えた。文鳥も淋しいから鳴くのではなかろうかと考えた。しかし縁側《えんがわ》へ出て見ると、二本の留《とま》り木《ぎ》の間を、あちらへ飛んだり、こちらへ飛んだり、絶間《たえま》なく行きつ戻りつしている。少しも不平らしい様子はなかった。
 夜は箱へ入れた。明《あく》る朝《あさ》目が覚《さ》めると、外は白い霜《しも》だ。文鳥も眼が覚めているだろうが、なかなか起きる気にならない。枕元にある新聞を手に取るさえ難儀《なんぎ》だ。それでも煙草《たばこ》は一本ふかした。この一本をふかしてしまったら、起きて籠から出してやろうと思いながら、口から出る煙《けぶり》の行方《ゆくえ》を見つめていた。するとこの煙の中に、首
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