をすくめた、眼を細くした、しかも心持|眉《まゆ》を寄せた昔の女の顔がちょっと見えた。自分は床の上に起き直った。寝巻の上へ羽織《はおり》を引掛《ひっか》けて、すぐ縁側へ出た。そうして箱の葢《ふた》をはずして、文鳥を出した。文鳥は箱から出ながら千代千代と二声鳴いた。
三重吉の説によると、馴《な》れるにしたがって、文鳥が人の顔を見て鳴くようになるんだそうだ。現に三重吉の飼っていた文鳥は、三重吉が傍《そば》にいさえすれば、しきりに千代千代と鳴きつづけたそうだ。のみならず三重吉の指の先から餌《え》を食べると云う。自分もいつか指の先で餌をやって見たいと思った。
次の朝はまた怠《なま》けた。昔の女の顔もつい思い出さなかった。顔を洗って、食事を済まして、始めて、気がついたように縁側《えんがわ》へ出て見ると、いつの間にか籠が箱の上に乗っている。文鳥はもう留《とま》り木《ぎ》の上を面白そうにあちら、こちらと飛び移っている。そうして時々は首を伸《の》して籠の外を下の方から覗《のぞ》いている。その様子がなかなか無邪気である。昔紫の帯上《おびあげ》でいたずらをした女は襟《えり》の長い、背のすらりとした、ちょっと首を曲げて人を見る癖《くせ》があった。
粟《あわ》はまだある。水もまだある。文鳥は満足している。自分は粟も水も易《か》えずに書斎へ引込《ひっこ》んだ。
昼過ぎまた縁側へ出た。食後の運動かたがた、五六間の廻り縁を、あるきながら書見するつもりであった。ところが出て見ると粟がもう七分がた尽きている。水も全く濁ってしまった。書物を縁側へ抛《ほう》り出しておいて、急いで餌《え》と水を易えてやった。
次の日もまた遅く起きた。しかも顔を洗って飯を食うまでは縁側を覗かなかった。書斎に帰ってから、あるいは昨日《きのう》のように、家人《うちのもの》が籠を出しておきはせぬかと、ちょっと縁へ顔だけ出して見たら、はたして出してあった。その上餌も水も新しくなっていた。自分はやっと安心して首を書斎に入れた。途端《とたん》に文鳥は千代千代と鳴いた。それで引込《ひっこ》めた首をまた出して見た。けれども文鳥は再び鳴かなかった。けげんな顔をして硝子越《ガラスごし》に庭の霜《しも》を眺めていた。自分はとうとう机の前に帰った。
書斎の中では相変らずペンの音がさらさらする。書きかけた小説はだいぶんはかどった。指の先が
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