集合体だと評しなければならない。
余が某氏の言《げん》に疑を挟《さしはさ》むのは、自分に最も密接の関係のある文壇の近状に徴《ちょう》して、決してそうではあるまいとの自信があるからである。政府は今日までわが文芸に対して何らの保護を与えていない。むしろ干渉のみを事とした形迹《けいせき》がある。それにもかかわらず、わが文学は過去数年の間に著るしい発展をした。余の見る所を以てすると、現今毎月刊行の文学雑誌に載る幾多《いくた》の小説の大部分は、英国の『ウィンゾー』などに続々現れてくる愚劣な小説よりも、どの位芸術的に書き流されているか分らない。既にこの数年の間にかほど進歩の機運が熟するとしたなら、突然それを阻害する事情の起らない限りは、文芸院などという不自然な機関の助けを藉《か》りて無理に温室へ入れなくても、野生のままで放って置けば、この先順当に発展するだけである。我々文士からいっても、好い加減な選り好みをされた上に、生中《なまなか》もやし扱いにされるのはありがたいものではない。
現代の文士が述作の上において要求する所のものは、国家を代表する文芸委員諸君の注意や批判や評価だと思うのは、政府の己惚《うぬぼれ》である。それらは皆|各自《めいめい》に有《も》っているはずである。疑わしいときは、個人としての先輩やら朋友やら、信用のある外国人の著わした書物やらに聴いて、自分の考えを纏《まと》めれば沢山である。現代の文士が述作の上において最も要求する所のものはそれらではない。金である。比較的容易なる生活である。彼らは見苦しいほど金に困っている。いわゆる文壇の不振とは、文壇に提供せられたる作物の不振ではない。作物を買ってやる財嚢《ざいのう》の不振である。文士からいえば米櫃《こめびつ》の不振である。新設されべき文芸院が果してこの不振の救済を急務として適当の仕事を遣《や》り出すならば、よし永久の必要はなしとした所で、刻下の困難を救う一時の方便上、文壇に縁の深い我々は折れ合って無理にも賛成の意を表したいが、どうしてそれを仕終《しおお》せるかの実行問題になると、余には全然見込が立たないのである。
下
近時のわが文壇は殆んど小説の文壇である。脚本と批評はこれに次ぐべき重要の因数《ファクトー》に相違ないが、分量からいっても、一般の注意を惹《ひ》く点からいっても、遂に小説には及ばな
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