の交渉なき政府の威力に本《もと》づくだけに、猶更《なおさら》の悪影響を一般社会――ことに文芸に志《こころ》ざす青年――に与うるものである。これを文芸の堕落《だらく》というのは通じる。保護というに至ってはその意味を知るに苦しまざるを得ない。
中
一家の批判を、一家として最後最上の批判と信ずるのに、何人《なんぴと》も喙《くちばし》を容《い》れようがない。けれどもそれをして比較的普遍ならしめんがため、――それを世間に通用する事実と変化せしめんがために、文芸の鑑賞に縁もゆかりもない政府の力を藉《か》りるのは卑怯の振舞である。自己の所信を客観化して公衆にしか認めしむべき根拠を有せざる時においてすら、彼らは自由に天下を欺《あざむ》くの権利をあらかじめ占有《アッシューム》するからである。
弊害はこればかりではない。既に文芸委員が政府の威力を背景に置いて、個人的ならざるべからざる文芸上の批判を国家的に膨脹《ぼうちょう》して、自己の勢力を張《は》るの具となすならば、政府はまた文芸委員を文芸に関する最終の審判者の如く見立てて、この機関を通して、尤《もっと》も不愉快なる方法によって、健全なる文芸の発達を計るとの漠然たる美名の下に、行政上に都合よき作物《さくぶつ》のみを奨励して、その他を圧迫するは見やすき道理である。公平なる文芸の鑑賞家は自己のいわゆる健全と政府のいわゆる健全と一致せざる多くの場合において、文芸院の設立を迷惑に思うだろう。
これらの弊害を別にしても、文芸院の建設は依然として文芸の発達上効力がある、即ちある種類の好い作物は出るに違《ちがい》ないと主張する人があるかも知れない。余はそういう人に向って、たとい日本に文芸院がなくっても好い作物は出るのだといいたい。かつて文部省の展覧会の審査員の某氏に会った時、日本の絵画も近頃は大分上手になりましたといったら、その人は文部省の展覧会が出来てから大変好くなりましたと答えた。日本の絵画の年々進歩するのは争うべからざる事実ではあるが、その原因を某氏のように一概《いちがい》に文部省の展覧会に帰するのは間違っているように思われる。果して日本の画家があの位の刺激に挑撥されて人工的に向上したとすれば、彼らは文部省の御蔭で腕が上がると同時に、同じく文部省の御蔭で頭が下がったので、一方からいうと気の毒なほど不見識《ふけんしき》な
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