ならない事もまた知れ切った話である。そうしてそれは根の深い国民教育の結果として、始めて一般世間の表面に浮遊して来るより外に途《みち》のないものである。既に根本が此処《ここ》で極《き》まりさえすれば、他の設備は殆んど装飾に過ぎない。(その弊害を勘定に入れない時ですら)。余は政府が文芸保護の最急政策として、何故《なにゆえ》にまず学校教育の遠き源から手を下さなかったかを怪むのである。それほど大仕掛《おおじかけ》の手数を厭う位なら、ついでに文芸院を建てる手数をも厭った方が経済であると考える。国家を代表するかの観を装う文芸委員なるものは、その性質上直接社会に向って、以上のような大勢力を振舞かねる団体だからである。
 もし文芸院がより多く卑近《ひきん》なる目的を以て、文芸の産出家に対して、個々別々の便宜を、その作物《さくぶつ》上の評価に応じて、零細《れいさい》にかつ随時に与えようとするならば、余はその効果の比較的少きに反して、その弊害の思ったよりも大いなる事を断言するに憚《はばか》らぬものである。
 我々は自《みずか》ら相応に鑑賞力のある文士と自任して、常住《じょうじゅう》他の作物に対して、自己の正当と信ずる評価を公けにして憚らないのみか、芸術上において相互発展進歩の余地はこれより外にないとまで考えている。けれども我々の批判はあくまでも我々一家の批判である。もしそれが一家の批判を超越する場合には、批判その物の性質として普遍ならざるべからざる権威を内に具えているがためで、いわば相手と熟議《じゅくぎ》の結果から得た自然の勢力に過ぎない。我々の背後にはただ他《ひと》より優秀なる鑑賞力と、他より超越せる判断力があるのみで、単《ひとえ》にこれがためにわが言辞にそれ相応の権威を生ずるのである。
 この権威を最後最上の権威であれかしと冀《こいねが》うのは、我々の欲望であって、一般に通ずる事実ではない。これを事実にしてくれるものは、相手と公平なる三者である。いやしくも二者の許諾《きょだく》を得ざるものは、どこまでも一家の批判に過ぎない。それが当然である。しかるに一家の批判を以て任ずべき文芸家もしくは文学家が、国家を代表する政府の威信の下に、突如として国家を代表する文芸家と化するの結果として、天下をして彼らの批判こそ最終最上の権威あるものとの誤解を抱かしむるのは、その起因する所が文芸その物と何ら
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