い。その小説について、斯道《しどう》に関係ある我々の見逃《みのが》し能《あた》わざる特殊の現象が毎月刊行の雑誌の上に著るしく現れて来た。それは全体の小説が芸術的作品として、或る水平に達しつつあるという事実である。またその水平が年々に高くなりつつあるという事実である。この二つの事実を左右の翼《つばさ》として、論理的に一段の交渉を前方に進めるならば、我々は局外者に向って興趣《きょうしゅ》ある一種の結論を提供する事が出来る。その結論とはこうである。――
わが小説界は偉大なる一、二の天才を有する代りに、優劣のしかく懸隔《けんかく》せざる多数の天才(もしくは人才)の集合努力によって進歩しつつある。
この傾向を首肯《うべな》いつつ、文芸委員のするという選抜賞与の実際問題に向うならば、公平にして真に文界の前途を思うものは、誰しもその事業に伴う危険と困難とを感ずべきはずである。さまで優劣の階段を設くる必要なき作品に対して、国家的代表者の権威と自信とを以て、敢て上下の等級を天下に宣告して憚らざるさえあるに、文明の趨勢と教化の均霑《きんてん》とより来《きた》る集合団体の努力を無視して、全部に与うべきはずの報酬を、強《し》いて個人の頭上《ずじょう》に落さんとするは、殆んど悪意ある取捨《しゅしゃ》と一般の行為だからである。
好悪《こうお》は人々の随意である。好悪より生ずる物品金銭の贈与もまた人々の随意である。英国の王家が月桂詩人の称号をスウィンバーンに与えないで、オースチンに年々二、三百|磅《ポンド》の恩給を贈るのは、単に王家がこの詩人に対する好悪の表現と見ればそれまでである。けれども国家の与うべき報酬は、一銭一厘たりとも好悪によって支配さるべきではない。必ず優劣によって決せらるべきである。しかもその優劣が判然《はっきり》と公衆の眼に映らなければならない。この必要条件を具備しない国家的保護と奨励とはなきに優《まさ》ると寛仮《かんか》するよりも、むしろあるに劣る(もしそういう言葉が意味をなすならば)と非難する方が当然である。
作物《さくぶつ》の現状と文士の窮状とは既に上説の如くであって、ここに保護のために使用すべき金が若干でもあるとすれば、それを分配すべき比較的|無難《ぶなん》な方法はただ一つあるだけである。余は毎月刊行の雑誌に掲載される凡《すべ》ての小説とはいわないつもりであるが、
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