文芸は男子一生の事業とするに足らざる乎
夏目漱石
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)文芸が果《はた》して
|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)又|些《ち》っと
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)とてもおいそれ[#「おいそれ」に傍点]と
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文芸が果《はた》して男子一生の事業とするに足るか何《ど》うかと云うことに答える前に、先《ま》ず文芸とは如何《いか》なるものであるか、と云うことを明かにしなければならぬ。文芸も見ように依って色々に見られるから、足るか足らぬかと争う前に、先《ま》ず相互の間に文芸とは如斯《かくのごとき》ものであると定めてかからねばなるまい。自分の云う文芸とは斯《こ》う云うものである。貴方《あなた》の云う文芸とは然《そ》う云うものか、では男子一生の事業とするに足るとか、足らないとか論ずべきであって、若《も》し、相互の間に文芸とは斯う云うものであると云うことを定《き》めてかからない以上、其論は何時《いつ》まで経っても終ることはない。それでは文芸とは如何《いか》なるものぞと文芸の定義を下すと云うことは、又|些《ち》っと難《むず》かしいことで、とてもおいそれ[#「おいそれ」に傍点]とそんな手早く出来ることではない。兎《と》に角《かく》斯《こ》う云う問題は答えるに些っと答え難《にく》い。文芸其物を明らかにしてから言わねばならぬ。それなら、私は明らかであるか何《ど》うかと言えば、私は斯う答える。何人も満足せしめ得る程に明らかに自分は考えて居ないかも知れない、けれ共自分を満足せしむる丈《だ》けには、相当の考えを持って居る意《つもり》である。其考えに依って此の問題を判断すると何《ど》うかと云うと、例の如《ごと》く面倒くさくなる。斯《こ》う斯う斯うであるからして、私は文芸を以《もっ》て男子一生の事業とするに足る、其理由を一々|挙《あ》げて来なければならぬから、些《ち》っと手軽くは話されない。中々難かしくなる。然し、其理由は抜きにして、結論だけ言えと云うなら訳はなくなる。自分の文芸に対する考えに基づいて文芸と云う其職業を判断して見ると、世間に存在して居る如何《いか》なる立派なる職業を持って来て比較して見ても、それに劣るとは言えない。優《まさ》るとは言えないかも知れないが、劣るとは言えない。文芸も一種の職業であって見れば、文芸が男子一生の事業とするに足らなくて、政治が男子の事業であるとか、宗教が男子一生の事業でなくて、豆腐屋が男子一生の事業であるとか、第一職業の優劣と云うことが何《ど》う云う標準を以て附けられるか、甚《はなは》だ漠然《ばくぜん》たるもので、其標準を一つに限らない以上は、お互いに或る標準を打ち立てた上でなくては優劣は付くものでない。一般から標準を立てないで職業と職業とを比較するならば、総《す》べての職業は皆同じで、其間に決して優劣はない。職業と云うことは、それを手段として生活の目的を得ると云うことである。世の中に存在する所の総《あら》ゆる職業は、其職業に依って、其職業の主《ぬし》が食って行かれると云うことを証明して居る。即《すなわ》ち、食って行かれないものなら、それは職業として存在し得られない。食って行ければこそ、世の中に職業として存在して居るのである。食って行き得る職業ならば、其職業は、職業としての目的を達し得たものと認めなければならぬ。で、職業としての目的を達し得た点に於《おい》て、総《あら》ゆる職業は平等で、優劣なぞのある道理はない。然《そ》う云う意味で言えば。車夫も大工も同じく優劣はない訳である。その如《ごと》く大工と文学者にも又同じく優劣はない。又文学者も政治家も優劣はない。だから、若《も》し文学者の職業が男子の一生の事業とするに足らぬと云うならば、政治家の職業も亦《また》男子一生の事業とするに足らないとも言えるし、軍人の職業も男子の一生の事業とするに足らぬとも言える。それを又逆にして、若し、文学者の職業を男子一生の事業とするに足ると云うならば、大工も豆腐屋も下駄の歯入れ屋も男子一生の事業とするに足ると言っても差支《さしつか》えない。
けれ共、或る標準を立てると、其間に直《す》ぐ優劣はついて来る。而《しか》して其優劣を定める標準は千差万別で、幾らでも出来る。例えば最も徳義に適《かな》ったものが最も好い職業であると、斯《こ》う云う標準も出来る。其徳義と云うものは、何《ど》う云う傾向を持ったものが徳義だとか、何う云う時代には何う云う傾向を持ったものが徳義だとか、只《ただ》、徳義と云うものを割っただけでも、幾らでも出来て来るし、其他幾らでもある。又健康と云うことを標準として、身体《からだ》に合ったものが好い職業であるとも言える
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