い文章と評しても構わないでしょう。汽車電車は無論人力さえ工夫する手段を知らないで、どこまでも親譲りの二本足でのそのそ歩いて行く文章であります。したがって散文的の感があるのです。散文的な文章とは馬へも乗れず、車へも乗れず、何らの才覚がなくって、ただ地道《じみち》に御拾いでおいでになる文章を云うのであります。これはけっして悪口ではありません、御拾いも時々は結構であります。ただ年が年中足を擂木《すりこぎ》にして、火事見舞に行くんでも、葬式の供に立つんでも同じ心得で、てくてくやっているのは、本人の勝手だと云えば云うようなものの、あまり器量のない話であります。デフォーははなはだ達筆で生涯《しょうがい》に三百何部と云う書物をかきました。まあ車夫のような文章家なのです。
これで二家の文章の批評は了《おわ》ります。この批評によって、我々の得た結論は何であるかと云うと、文芸に在《あ》って技巧は大切なものであると云う事であります。もし技巧がなければせっかくの思想も、気の毒な事に、さほどな利目《ききめ》が出て来ない。沙翁とデフォーは同じ思想をあらわしたのでありますが、その結果は以上のごとく、大変な相違を来
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