二つを区別しておいて歩を進めます。しかしその論法は大体において(い)の場合、すなわち吾人は知の働きを愛して、これに一種の情を付与すと云う条《くだ》りに説明したものと変りはありません。吾人の心裏《しんり》に往来する喜怒哀楽は、それ自身において、吾人の意識の大部分を構成するのみならず、その発現を客観的にして、これをいわゆる物(多くの場合においては人間であります)において認めた時にもまた大に吾人の情を刺激するものであります。けれどもこの刺激は前に述べた条件に基《もとづ》いて、ある具体、ことに人間を通じて情があらわるるときに始めて享受《きょうじゅ》する事ができるのであります。情において興味を有するからと云うて心理学者のように情だけを抽象して、これを死物として取扱えば文芸的にはなり兼ねるのであります。もっとも当体が情であるだけに、知意に比すると比較的抽象化しても物にならんとは限りませんが、これを詳《くわ》しく説明する余裕がないから略します。
そこでこの種の理想に在《あ》っても分化の結果いろいろになりますが、まず標準を云うと、物を通して――物と云うより人と云う方が分りやすいから人としましょう。―
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