んな具合にあらわされるかまた、「感覚的なものを通じて」と云うのは感覚的なものを使って、この道具の方便である情をあらわすと云うのか、しからずんば感覚的なもの、それ自身がこの情をあらわす目的物かという問題であります。この問題を解釈すると文芸家の理想の分化する模様が大体|見当《けんとう》がつきます。第一問の解釈、第二問の解釈として順を追うては述べませんが、ただ秩序を立てて分りやすくするためにやはり一二の番号をふって説明して行きます。
(一)私は最前《さいぜん》空間、時間の建立《こんりゅう》からして、物我の二世界を作ると申しました。その物[#「物」に白丸傍点]なるものは自然である、人間である、(単に物として見たる)神である(我以外[#「以外」に傍点]に存在するとすれば)と申しました。このうちで神は感覚的なものでないから問題になりません。もし文芸に神が出現するときは感覚的な或物を通じてくるのだから、出現するとしても、他と同じ分類のなかに這入《はい》るからしてやはり問題にする必要はありません。すると残るものは自然と人間であります。そうして我々は自然とこの人間とに対して一種の情を有しております。換言
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