分類かも知れぬが、三つの作用が各独立して、他と交渉なく働いているものではありません。心の作用はどんなに立入って細かい点に至っても、これを全体として見るとやはり知情意の三つを含んでいる場合が多い。だからこの三作用を截然《せつぜん》と区別するのは全く便宜上《べんぎじょう》の抽象である。この抽象法を用いないで、しかも極度の分化作用による微細なる心の働き(全体として)を写して人に示すのはおもに文学者がやっている。だから文学者の仕事もこの分化発展につれてだんだんと、朦朧《もうろう》たるものを明暸に意識し、意識したるものを仔細《しさい》に区別して行きます。例えば昔の竹取物語とか、太平記とかを見ると、いろいろな人間が出て来るがみんな同じ人間のようであります。西鶴などに至ってもやはりそうであります。つまりああいう著者には人間がたいてい同様にぼうっと見えたのでありましょう。分化作用の発展した今日になると人間観がそう鷹揚《おうよう》ではいけない。彼らの精神作用について微妙な細《こまか》い割り方をして、しかもその割った部分を明細に描写する手際《てぎわ》がなければ時勢に釣り合わない。これだけの眼識のないものが
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