見受けます。申すまでもなく私は極《きわ》めて画道には暗い人間であります。だから画の事に関して嘴《くちばし》を容《い》れる権利は無論ないのですが、門外漢の云う事も時には御参考になるだろうし、こうして諸君に御目にかかる機会も滅多《めった》にありませず、かつ文芸全体に通じての議論ですから、大胆なところを述べてしまいます。――あなた方の方では人間を御かきになるときはモデルを御使いになります、草や木を御かきになるときは野外もしくは室内で写生をなさいます。これはまことに結構な事で、我々文学者が四畳半のなかで、夢のような不都合な人物、景色、事件を想像して好加減《いいかげん》な事を並べて平気でいるよりも遥《はるか》に熱心な御研究であります。その効能は固《もと》より御承知の事で、私などがかれこれ申すのも釈迦《しゃか》に何とかいう類《たぐい》になりますが、まず講話の順序として分らぬながら、分ったと思う事だけを述べます。こう云う修業で得る点は私の考えではまず二通りになるだろうと思います。一つは物の大小形状及びその色合などについて知覚が明暸《めいりょう》になりますのと、この明暸になったものを、精細に写し出す事が巧者にかつ迅速《じんそく》にできる事だと信じます。二はこれを描《えが》き出すに当って使用する線及び点が、描き出される物の形状や色合とは比較的独立して、それ自身において、一種の手際《てぎわ》を帯びて来る事であります。この第二の技術は技術でありかつ理想をもあらわしているからして純然たる技巧と見る訳には参りません。現に日本在来の絵画はおもにこの技巧だけで価値を保ったものであります。それにも関わらず、これに対して鑑賞の眼を恣《ほしいまま》にすると、それぞれに一種の理想をあらわしている、すなわち画家の人格を示している、ために大なる感興を引く事が多いのであります。たとえば一線の引き方でも、(その一線だけでは画は成立せぬにも関わらず)勢いがあって画家の意志に対する理想を示す事もできますし、曲り具合が美に対する理想をあらわす事もできますし、または明暸で太い細いの関係が明かで知的な意味も含んでおりましょうし、あるいは婉約《えんやく》の情、温厚な感を蓄える事もありましょう。(知、情の理想が比較的顕著でないのは性質上やむをえません)こうなると線と点だけが理想を含むようになります。ちょうど金石文字や法帖《ほうじょう》と同じ事で、書を見ると人格がわかるなどと云う議論は全くこれから出るのであろうと考えられます。だから、この技巧はある程度の修養につれて、理想を含蓄して参ります。しかし前種の技巧、すなわち物に対する明暸なる知覚をそのままにあらわす手際《てぎわ》は、全然理想と没交渉と云う訳には参りませんが、比較的にこれとは独立したものであります。これをわかりやすく申しますと、物をかいて、現物のように出来上っても、知、情、意、の働きのあらわれておらんのがあります。何《なん》だか気乗りのしないのがあります。どことなく機械的なのがあります。私の技巧と云うのは、この種の技巧を云うのであります。私の非難したいのは、この種の技巧だけで画工になろうと云う希望を抱く人々であります。無論諸君は、画工になるにはこの種の技巧だけで充分だと御考えになってはおられますまい。しかし技巧をおもにして研究を重ねて行かれるうちには、時によると知らぬ間に、ついこの弊《へい》に陥る事がないとは限らんと思います。再び前段に立ち帰って根本的に申しますと、前に述べた通り、文芸は感覚的な或物を通じて、ある理想をあらわすものであります。だからしてその第一主義を云えばある理想が感覚的にあらわれて来なければ、存在の意義が薄くなる訳であります。この理想を感覚的にする方便として始めて技巧の価値が出てくるものと存じます。この理想のない技巧家を称して、いわゆる市気匠気《いちきしょうき》のある芸術家と云うのだろうと考えます。市気匠気のある絵画がなぜ下品かと云うと、その画面に何らの理想があらわれておらんからである。あるいはあらわれていても浅薄で、狭小で、卑俗で、毫《ごう》も人生に触れておらんからであります。
私は近頃流行する言語を拝借して、人生に触れておらんと申しました。私のいわゆる人生に触れると申す意味は、前段からの議論で大概は御分りになったろうとは思いますが、御約束だから形式的に説明致しますと、比較的簡単で明暸であります。少くとも私だけにはそう思われます。我々は意識の連続を希望します。連続の方法と意識の内容の変化とが吾人に選択《せんたく》の範囲を与えます。この範囲が理想を与えます。そうしてこの理想を実現するのを、人生に触れると申します。これ以外に人生に触れたくても触れられよう訳がありません。そうしてこの理想は真、美、善、壮の四種に分れ
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