ますからして、この四種の理想を実現し得る人は、同等の程度に人生に触れた人であります。真の理想をあらわし得る人は、美の理想をあらわし得る人と、同様の権利と重みとをもって、人生に触れるのであります。善の理想を示し得る人は壮の理想を示し得る人と、同様の権利と重みをもって、人生に触れたものであります。いずれの理想をあらわしても、同じく人生に触れるのであります。その一つだけが触れて、他は触れぬものだと断言するのは、論理的にかく証明し来ったところで、成立せぬ出放題の広言であります。真は深くもなり、広くもなり得る理想であります。しかしながら、真が独《ひと》り人生に触れて、他の理想は触れぬとは、真以外に世界に道路がある事を認め得ぬ色盲者の云う事であります。東西南北ことごとく道路で、ことごとく通行すべきはずで、大切と云えばことごとく大切であります。
 四種の理想は分化を受けます。分化を受けるに従って変形を生じます。変形を生じつつ進歩する機会を早めます。この変形のうち、もっとも新しい理想を実現する人を人生において新意義を認めた人と云います。変形のうちもっとも深き理想を実現する人を、深刻に人生に触れた人と申します。(云うまでもなく深刻とは真、善、美、壮の四面にわたって申すべき形容詞であります。悲惨だから深刻だとか、暗黒だから深刻だとか云うのは無意味の言語であります)変形のうちもっとも広き理想を実現する人を、広く人生に触れた人と申します。この三つを兼ねて、完全なる技巧によりてこれを実現する人を、理想的文芸家、すなわち文芸の聖人と云うのであります。文芸の聖人はただの聖人で、これに技巧を加えるときに、始めて文芸の聖人となるのであります。聖人の理想と申して別段の事もありません。ただいかにして生存すべきかの問題を解釈するまでであります。
 発達した理想と、完全な技巧と合した時に、文芸は極致に達します。(それだから、文芸の極致は、時代によって推移するものと解釈するのが、もっとも論理的なのであります)文芸が極致に達したときに、これに接するものはもしこれに接し得るだけの機縁が熟していれば、還元的感化を受けます。この還元的感化は文芸が吾人《ごじん》に与え得る至大至高の感化であります。機縁が熟すと云う意味は、この極致文芸のうちにあらわれたる理想と、自己の理想とが契合《けいごう》する場合か、もしくはこれに引つけられたる自己の理想が、新しき点において、深き点において、もしくは広き点において、啓発《けいはつ》を受くる刹那《せつな》に大悟する場合を云うのであります。縁なき衆生《しゅじょう》は度しがたしとは単に仏法のみで言う事ではありません。段違いの理想を有しているものは、感化してやりたくても、感化を受けたくてもとうていどうする事もできません。
 還元的感化と云う字が少々妙だから、御分りにならんかと思います。これを説明すると、こういう意味になります。文芸家は今申す通り自己の修養し得た理想を言語とか色彩とかの方便であらわすので、その現わされる理想は、ある種の意識が、ある種の連続をなすのを、そのままに写し出したものに過ぎません。だからこれに対して享楽《きょうらく》の境《さかい》に達するという意味は、文芸家のあらわした意識の連続に随伴すると云う事になります。だから我々の意識の連続が、文芸家の意識の連続とある度まで一致しなければ、享楽と云う事は行われるはずがありません。いわゆる還元的感化とはこの一致の極度において始めて起る現象であります。
 一致の意味は固《もと》より明暸で、この一致した意識の連続が我々の心のうちに浸み込んで、作物を離れたる後までも痕迹《こんせき》を残すのがいわゆる感化であります。すると説明すべきものはただ還元の二字になります。しかしこの二字もまた一致と云う字面のうちに含まれております。一致と云うと我の意識と彼の意識があって、この二つのものが合して一となると云う意味でありますが、それは一致せぬ前に言うべき事で、すでに一致した以上は一もなく二もない訳でありますからして、この境界に入ればすでに普通の人間の状態を離れて、物我の上に超越しております。ところがこの物我の境を超越すると云う事は、この講演の出立地であって、またあらゆる思索の根拠《こんきょ》本源になります。したがって文芸の作物に対して、我を忘れ彼を忘れ、無意識に(反省的でなくと云う意なり)享楽を擅《ほしいまま》にする間は、時間も空間もなく、ただ意識の連続があるのみであります。もっともここに時間も空間もないと云うのは作物中にないと云うのではない、自己が作物に対する時間、また自己が占めている空間がないという意味であって、読んで何時間かかるか、また読んでいる場所は書斎の裡《うち》か郊外か蓐中《じょくちゅう》かを忘れると云うの
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