《つか》んでは抛《な》げ、攫んでは抛げ、あたかも粟餅屋《あわもちや》が餅をちぎって黄《き》ナ粉《こ》の中へ放り込むような勢で抛げつけます。この黄ナ粉が時間だと、過去の餅、現在の餅、未来の餅になります。この黄ナ粉が空間だと、遠い餅、近い餅、ここの餅、あすこの餅になります。今でも私の前にあなた方が百五十人ばかりならんでおられる。これは失礼ながら私が便宜のため、そこへ抛げ出したのであります。すでに空間のできた今日であるから、嘘にもせよせっかく出来上ったものを使わないのも宝の持腐れであるから、都合により、ぴしゃぴしゃ投出すと約百余人ちゃんと、そこに行儀よく並んでおられて至極《しごく》便利であります。投げると申すと失敬に当りますが、粟餅《あわもち》とは認めていないのだから、大した非礼にはなるまいと思います。
 この放射作用と前に申した分化作用が合併《がっぺい》して我以外のものを、単に我以外のものとしておかないで、これにいろいろな名称を与えて互に区別するようになります。例えば感覚的なものと超感覚的なもの(あるかないか知らないが幽霊とか神とか云う正体の分らぬものを指すのです)に分類する。その感覚的なものをまた眼で見る色や形、耳で聴く音や響、鼻で嗅《か》ぐ香、舌でしる味などに区別する。かくのごとく区別されたものを、まただんだんに細かく割って行く。分化作用が行われて、感覚が鋭敏になればなるほどこの区別は微精になって来ます。のみならず同一に統一作用が行われるからして、一方では草となり、木となり、動物となり、人間となるのみならず。草は菫《すみれ》となり、蒲公英《たんぽぽ》となり、桜草となり、木は梅となり、桃となり、松となり、檜《ひのき》となり、動物は牛、馬、猿、犬、人間は士、農、工、商、あるいは老、若、男、女、もしくは貴、賤、長、幼、賢、愚、正、邪、いくらでも分岐して来ます。現に今日でも植物学者の見分け得る草や花の種類はほとんど吾人《ごじん》の幾百倍に上るであろうと思います。また諸君のような画家の鑑別する色合は普通人の何十倍に当るか分らんでしょう。それも何のためかと云えば、元に還って考えて見ると、つまりは、うまく生きて行こうの一念に、この分化を促《うなが》されたに過ぎないのであります。ある一種の意識連続を自由に得んがために(選択の区域に出来得るだけの余裕を与えんがために)あらかじめ意識の範囲を広くすると云う意味にほかならんのであります。私共はどの草を見ても皆一様に青く見える。青のうちでいろいろな種類を意識したいと思っても、いかんせん分化作用がそこまで達しておらんから皆無駄目である。少くとも色について変化に富んだ複雑の生活は送れない事に帰着する。盲眼《めくら》の毛の生《は》えたものであります。情ない次第だと思います。或る評家の語に吾人が一色を認むるところにおいてチチアンは五十色を認めるとあります。これは単に画家だから重宝だと云うばかりではありません。人間として比較的融通の利《き》く生活が遂げらるると云う意味になります。意識の材料が多ければ多いほど、選択の自由が利いて、ある意識の連続を容易に実行できる――即ち自己の理想を実行しやすい地位に立つ――人と云わなければならぬから、融通の利く人と申すのであります。単に色ばかりではありません。例えば思想の乏しい人の送る内|生涯《しょうがい》と云うものも色における吾々と同じく、気の毒なほど憐《あわれ》なものです。いくら金銭に不自由がなくても、いくら地位門閥が高くても、意識の連続は単調で、平凡で、毫《ごう》も理想がなくて、高、下、雅、俗、正、邪、曲、直の区別さえ分らなくて昏々濛々《こんこんもうもう》としてアミーバのような生活を送ります。こんな連中は人間さえ見れば誰も彼もみな同じ物だと思って働きかけます。それは頭が不明暸《ふめいりょう》なんだからだと注意してやると、かえって吾々を軽蔑《けいべつ》したり、罵倒したりするから厄介です――しかしこれはここで云う事ではない。演説の足が滑《すべ》って泥溝《どぶ》の中へちょっと落ちたのです。すぐ這《は》い上《あが》って真直に進行します。
 吾人は今申す通り我[#「我」に白丸傍点]に対する物[#「物」に白丸傍点]を空間に放射して、分化作用でこれを精細に区別して行きます。同時に我[#「我」に白丸傍点]に対してもまた同様の分化作用を発展させて、身体と精神とを区別する。その精神作用を知、情、意、の三に区別します。それからこの知を割り、情を割り、その作用の特性によってまたいろいろに識別して行きます。この方面は主として心理学者と云うものが専門として担任しているから、これらの人に聞くのが一番わかりやすい。もっとも心理学者のやる事は心の作用を分解して抽象してしまう弊《へい》がある。知情意は当を得た
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