附着しない因果はから[#「から」に傍点]の因果であります。因果の法則などと云うものは全くから[#「から」に傍点]のもので、やはり便宜上の仮定に過ぎません。これを知らないで天地の大法に支配せられて……などと云ってすましているのは、自分で張子《はりこ》の虎を造ってその前で慄《ふる》えているようなものであります。いわゆる因果法と云うものはただ今までがこうであったと云う事を一目《いちもく》に見せるための索引に過ぎんので、便利ではあるが、未来にこの法を超越した連続が出て来ないなどと思うのは愚《ぐ》の極《きょく》であります。それだから、よく分った人は俗人の不思議に思うような事を毫《ごう》も不思議と思わない。今まで知れた因果《いんが》以外にいくらでも因果があり得るものだと承知しているからであります。ドンが鳴ると必ず昼飯《ひるめし》だと思う連中とは少々違っています。
 ここいらで前段に述べた事を総括《そうかつ》しておいて、それから先へ進行しようと思います。(一)吾々は生きたいと云う念々《ねんねん》に支配せられております。意識の方から云うと、意識には連続的傾向がある。(二)この傾向が選択《せんたく》を生ずる。(三)選択が理想を孕《はら》む。(四)次にこの理想を実現して意識が特殊[#「特殊」に白丸傍点]なる連続的方向を取る。(五)その結果として意識が分化する、明暸《めいりょう》になる、統一せられる。(六)一定の関係を統一して時間に客観的存在を与える。(七)一定の関係を統一して空間に客観的存在を与える。(八)時間、空間を有意義ならしむるために数を抽象してこれを使用する。(九)時間内に起る一定の連続を統一して因果《いんが》の名を附して、因果の法則を抽象する。
 まずざっと、こんなものであります。してみると空間というものも時間というものも因果の法則というものも皆|便宜上《べんぎじょう》の仮定であって、真実に存在しているものではない。これは私がそう云うのです。諸君がそうでないと云えばそれでもよい。御随意である。とにかく今日だけはそう仮定したいものだと思います。それでないと話が進行しません。なぜこんな余計な仮定をして平気でいるかというと、そこが人間の下司《げす》な了簡《りょうけん》で、我々はただ生きたい生きたいとのみ考えている。生きさえすれば、どんな嘘《うそ》でも吐《つ》く、どんな間違でも構わず遂行する、真《まこと》にあさましいものどもでありますから、空間があるとしないと生活上不便だと思うと、すぐ空間を捏造《ねつぞう》してしまう。時間がないと不都合だと勘づくと、よろしい、それじゃ時間を製造してやろうと、すぐ時間を製造してしまいます。だからいろいろな抽象や種々な仮定は、みんな背に腹は代えられぬ切なさのあまりから割り出した嘘であります。そうして嘘から出た真実《まこと》であります。いかにこの嘘が便宜であるかは、何年となく嘘をつき習った、末世澆季《まつせぎょうき》の今日では、私もこの嘘を真実《しんじつ》と思い、あなた方もこの嘘を真実と思って、誰も怪しむものもなく、疑うものもなく、公々然|憚《はばか》るところなく、仮定を実在と認識して嬉《うれ》しがっているのでも分ります。貧して鈍すとも、窮すれば濫《らん》すとも申して、生活難に追われるとみんなこう堕落して参ります。要するに生活上の利害から割り出した嘘だから、大晦日《おおみそか》に女郎のこぼす涙と同じくらいな実《まこと》は含んでおります。なぜと云って御覧なさい。もし時間があると思わなければ、また時間を計る数と云うものがなければ、土曜に演説を受け合って日曜に来るかも知れない。御互の損になります。空間があると心得なければ、また空間を計る数と云うものがなければ、電車を避ける事もできず、二階から下りる事もできず、交番へ突き当ったり、犬の尾を踏んだり、はなはだ嬉《うれ》しくない結果になります。普通に知れ渡った因果の法則もこの通りであります。だからすべてこれらに存在の権利を与えないと吾身《わがみ》が危ういのであります。わが身が危うければどんな無理な事でもしなければなりません。そんな無法があるものかと力味《りきん》でいる人は死ぬばかりであります。だから現今ぴんぴん生息している人間は皆不正直もので、律義《りちぎ》な連中はとくの昔に、汽車に引かれたり、川へ落ちたり、巡査につかまったりして、ことごとく死んでしまったと御承知になれば大した間違はありません。
 すでに空間ができ、時間ができれば意識を割《さ》いて我と物との二つにする事は容易であります。容易などころの騒ぎじゃない。実は我と物を区別してこれを手際《てぎわ》よく安置するために空間と時間の御堂《みどう》を建立《こんりゅう》したも同然である。御堂ができるや否や待ち構えていた我々は意識を攫
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