ックも高襟も目に見える、手に触れると云うまでで自分でないにはきまっている。この手、この足、痒《かゆ》いときには掻《か》き、痛いときには撫《な》でるこの身体《からだ》が私かと云うと、そうも行かない。痒い痛いと申す感じはある。撫でる掻くと云う心持ちはある。しかしそれより以外に何にもない。あるものは手でもない足でもない。便宜《べんぎ》のために手と名づけ足と名づける意識現象と、痛い痒いと云う意識現象であります。要するに意識はある。また意識すると云う働きはある。これだけはたしかであります、これ以上は証明する事はできないが、これだけは証明する必要もないくらいに炳乎《へいこ》として争うべからざる事実であります。して見ると普通に私と称しているのは客観的に世の中に実在しているものではなくして、ただ意識の連続して行くものに便宜上《べんぎじょう》私と云う名を与えたのであります。何が故《ゆえ》に平地に風波を起して、余計な私[#「私」に白丸傍点]と云うものを建立《こんりゅう》するのが便宜かと申すと、「私[#「私」に白丸傍点]」と、一たび建立するとその裏には、「あなた方」と、私以外のものも建立する訳になりますから、物我の区別がこれでつきます。そこがいらざる葛藤《かっとう》で、また必要な便宜なのであります。
 こう云うと、私は自分(普通に云う自分)の存在を否定するのみならず、かねてあなた方《がた》の存在をも否定する訳になって、かように大勢傍聴しておられるにもかかわらず、有れども無きがごとくではなはだ御気の毒の至りであります。御腹も御立ちになるでしょうが、根本的の議論なのだから、まず議論として御聴きを願いたい。根本的に云うと失礼な申条だがあなた方は私を離れて客観的に存在してはおられません。――私を離れてと申したが、その私さえいわゆる私としては存在しないのだから、いわんやあなた方においてをやであります。いくら怒られても駄目《だめ》であります。あなた方はそこにござる。ござると思ってござる。私もまあちょっとそう思っています。います事は、いますがただかりにそう思って差し上げるまでの事であります。と云うものは、いくらそれ以上に思って上げたくてもそれだけの証拠《しょうこ》がないのだから仕方がありません。普通に物の存在を確《たしか》めるにはまず眼で見ますかね。眼で見た上で手で触れて見る。手で触れたあとで、嗅《か
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