けて見ろと云われた時に、何人《なんびと》もこれをあえてする事はできないはずと思います。もしあるとすれば答案を調べずに点数をつける乱暴な教員と同じもので、言語道断の不心得であります。ただ吾は時勢の影響を受けているから、しかじかの理想に属するものを好むと云うならばそれでよろしい。吾は個性としてかくかくの理想の下に包含せらるべきものを択《えら》むと云うならば、それで勘弁してもよい。好悪《こうお》は理窟《りくつ》にはならんのだから、いやとか好きとか云うならそれまでであるが、根拠のない好悪を発表するのを恥じて、理窟もつかぬところに、いたずらな理窟をつけて、弁解するのは、消化がわるいから僕は蛸《たこ》が嫌《きらい》だというような口上で、もし好物であったなら、いかほど不消化でも、だまって、足は八本共に平げるほどな覚悟だろうと思います。
この故にこれら四種の理想は、互に平等な権利を有して、相冒《あいおか》すべからざる標準であります。だから美の標準のみを固執《こしゅう》して真の理想を評隲《ひょうちょく》するのは疝気筋《せんきすじ》の飛車取り王手のようなものであります。朝起を標準として人の食慾を批判するようなものでしょう。御前は朝寝坊だ、朝寝坊だからむやみに食うのだと判断されては誰も心服するものはない。枡《ます》を持ち出して、反物の尺を取ってやるから、さあ持って来いと号令を下したって誰も号令に応ずるものはありません。寒暖計を眺めて、どうもあの山の高さはよほどあるよと云う連中は、寒暖計を験温器の代りにして逆上の程度でも計ったらよかろうと思う。もっともここに見当違《けんとうちが》いの批評と云うのは、美をあらわした作物を見て、ここには真がないと否定する意味ではない。真がないから駄目だ作物にならん[#「駄目だ作物にならん」に傍点]と云う批評を云うのである。真はないかも知れぬ、なければないでよい。無いものを有ると云うて貰いたいとは誰も云わないでしょう。しかし現にある美だけは見てやらなくっては、せっかく作った作物の生命がなくなる訳であります。頭は薬缶《やかん》だが鬚《ひげ》だけは白いと云えば公平であるが、薬缶じゃ御話しにならんよと、一言で退《しりぞ》けられたなら、鬚こそいい災難である。運慶の仁王は意志の発動をあらわしている。しかしその体格は解剖には叶《かな》っておらんだろうと思います。あれを評し
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