―人を通じて愛の関係をあらわすもの、これは十中八九いわゆる小説家の理想になっております。その愛の関係も分化するといろいろになります。相愛《あいあい》して夫婦になったり、恋の病に罹《かか》ったり――もっとも近頃の小説にはそんな古風なのは滅多《めった》にないようですが、それからもっと皮肉なのになると、嫁に行きながら他の男を慕って見たり、ようやく思が遂げていっしょになる明くる日から喧嘩《けんか》を始めたり、いろいろな理想――理想と云うのもおかしいようだ――とにかくいろいろできます。次には忠、孝、義侠心《ぎきょうしん》、友情、おもな徳義的情操はその分化した変形と共に皆標準になります。この徳義的情操を標準にしたものを総称して善の理想と呼ぶ事ができます。この事はもっと委細に御話したいが時間がないから略して次に移ります。
(は)精神作用の第三は意志であります。この意志が文芸的にあらわれ得るためには、やはり前述の条件に従って、感覚的な物を通じて具体化されなくてはなりません。そうすると、感覚的な物は道具であって、この道具のために意志の働きが判然とあらわれてくる。しかし道具はどこまでも道具で、意志があらわれるから道具も尊くなる。例《たと》えば徳利《とくり》のようなものであります。徳利自身に貴重な陶器がないとは限らぬが、底が抜けて酒を盛るに堪《た》えなかったならば、杯盤の間に周旋して主人の御意に入る事はできんのであります。今かりに大弾丸の空裏《くうり》を飛ぶ様を写すとする。するとこれを見る方《ほう》に二通りある。一は単に感覚的で、第一に述べたような場合に属する。一はこの感覚的なるものを通して非常に猛烈な勢《いきおい》――ただの勢では写す事もどうする事もできんから――をあらわす。すると弾丸は客で、実の目的は弾丸のあらわす猛勢である。自然ながら、器械的ながら一種の意志の作用である。冬富士山へ登るものを見ると人は馬鹿と云います。なるほど馬鹿には相違ないが、この馬鹿を通して一種の意志が発現されるとすれば、馬鹿全体に眼をつける必要はない、ただその意志のあらわれるところ、文芸的なるところだけを見てやればよいかも知れません。貴重な生命を賭《と》して海峡を泳いで見たり、沙漠《さばく》を横ぎって見たりする馬鹿は、みんな意志を働かす意識の連続を得んがために他を犠牲に供するのであります。したがってこれを文芸的
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