空間自存の概念が起るのはやはり発達した抽象を認めて実在と見做《みな》した結果にほかならぬ。文法と云うものは言葉の排列上における相互の関係を法則にまとめたものであるが、小児は文法があって、それから文章があるように考えている。文法は文章があって、言葉があって、その言葉の関係を示すものに過ぎんのだからして、文法こそ文章のうちに含まれていると云ってしかるべきであるごとく空間の概念も具体的なる両意識のうちに含まれていると云ってもよろしいと思う。それを便宜《べんぎ》のために抽象して離してしまって広い空間を勝手次第に抛《ほう》り出すと、無辺際のうちにぽつりぽつりと物が散点しているような心持ちになります。もっともこの空間論も大分難物のようで、ニュートンと云う人は空間は客観的に存在していると主張したそうですし、カントは直覚だとか云ったそうですから、私の云う事は、あまり当《あて》にはなりません。あなた方が当になさらんでも、私はたしかにそう思ってるんだから毫《ごう》も差支《さしつかえ》はありません。ただ自分だけで、そう思っていればすむ事を、かように何のかのと申し上げるのは、演説を御頼みになった因果《いんが》でやむをえず申し上げるので、もしこれを申し上げないと、いつまでたっても文学談に移る事はできないのであります。
さて抽象の結果として、時間と空間に客観的存在を与えると、これを有意義ならしむるために数《すう》というものを製造して、この両つのものを測《はか》る便宜法を講ずるのであります。世の中に単に数というような間《ま》の抜けた実質のないものはかつて存在した試しがない。今でもありません。数と云うのは意識の内容に関係なく、ただその連続的関係を前後に左右にもっとも簡単に測《はか》る符牒《ふちょう》で、こんな正体のない符牒を製造するにはよほど骨が折れたろうと思われます。
それから意識の連続のうちに、二つもしくは二つ以上、いつでも同じ順序につながって出て来るのがあります。甲の後には必ず乙が出る。いつでも出る。順序において毫《ごう》も変る事がない。するとこの一種の関係に対して吾人《ごじん》は因果《いんが》の名を与えるのみならず、この関係だけを切り離して因果の法則と云うものを捏造《ねつぞう》するのであります。捏造と云うと妙な言葉ですが、実際ありもせぬものをつくり出すのだから捏造に相違ない。意識現象に
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