文芸と道徳
夏目漱石
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(例)寿司《すし》
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(例)大部分|端折《はしょ》ってしまって
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私はこの大阪で講演をやるのは初めてであります。またこういう大勢の前に立つのも初めてであります。実は演説をやるつもりではない、むしろ講義をする気で来たのですが、講義と云うものはこんな多人数を相手にする性質のものでありません。これだけの聴衆全体に通るような声を出そうとすれば――第一出る訳がないけれども、万一出るにしても十五分ぐらいで壇を降りなければやりきれないだろうと思います。したがって、始めての事でもあるしこれほど御集りになった諸君の御厚意に対してもなるべく御満足の行くように、十分面白い講演をして帰りたいのは山々であるけれども、しかしあまり大勢お出になったから――と云って、けっしてつまらぬ演説をわざわざしようなどという悪意は毛頭無いのですけれども、まあなるべく短かく切上げる事にして、そうして――まだ後にも面白いのがだいぶありますから、その方で埋め合せをして、まず数でコナすようなことにしようと思う。実際この暑いのにこうお集まりになって竹の皮へ包んだ寿司《すし》のように押し合っていてはたまりますまい。また講演者の方でも周囲前後左右から出る人の息だけでも――ちょっとここへ立って御覧になればすぐ分りますが――実際容易なものではありません。実はこういうように原稿紙へノートが取ってありますから、時々これを見ながら進行すれば順序もよく整い遺漏《いろう》も少なく、大変都合が好いのですけれども、そんな手温《てぬる》い事をしていてはとても諸君がおとなしく聴いていて下さるまいと思うから、ところどころ――ではない大部分|端折《はしょ》ってしまってやるつもりであります。しかしもしおとなしく聴いて下されば十分にやるかも知れない。やろうと思えばやれるのです。
問題はあすこに書いてある通り「文芸と道徳」と云うのですが、御承知の通り私は小説を書いたり批評を書いたり大体文学の方に従事しているために文芸の方のことをお話する傾《かたむ》きが多うございます。大阪へ来て文芸を談ずると云うことの可否は知りません。儲《もう》ける話でもしたら一番よかろうと思っているんですが、「文芸と道徳」では題をお聴きになっただけでも儲かりません。その内容をお聴きになってはなお儲かりません。けれども別に損をするというほどの縁喜《えんぎ》の悪い題でもなかろうと思うのです。もちろん御聴《おきき》になる時間ぐらいは損になりますが、そのくらいな損は不運と諦《あきら》めて辛抱して聴いていただきたい。
昔の道徳と今の道徳と云うものの区別、それからお話をしたいと思いますが――どうも落ちついてやっていられないような気がしてたまらない。その前にちょっとこの題の説明をしますが、「道徳と文芸」とある以上、つまり文芸と道徳との関係に帰着するのだから、道徳の関係しない方面、あるいは部分の文芸と云うものはここに論ずる限りでない。したがって文芸の中《うち》でも道徳の意味を帯びた倫理的の臭味《くさみ》を脱却する事のできない文芸上の述作についてのお話と云ってもよし、文芸と交渉のある道徳のお話と云ってもよいのです。それでまず道徳と云うものについて昔と今の区別からお話を始めてだんだん進行する事に致します。
昔の道徳、これは無論日本での御話ですから昔の道徳といえば維新前の道徳、すなわち徳川氏時代の道徳を指すものでありますが、その昔の道徳はどんなものであるかと云うと、あなた方《がた》も御承知の通り、一口に申しますと、完全な一種の理想的の型を拵《こしら》えて、その型を標準としてその型は吾人が努力の結果実現のできるものとして出立したものであります。だから忠臣でも孝子でももしくは貞女でも、ことごとく完全な模範を前へおいて、我々ごとき至らぬものも意思のいかん、努力のいかんに依っては、この模範通りの事ができるんだといったような教え方、徳義の立て方であったのです。もっとも一概に完全と云いましても、意味の取り方で、いろいろになりますけれども、ここに云うのは仏語《ぶつご》などで使う純一無雑まず混《まじ》り気《け》のないところと見たら差支《さしつかえ》ないでしょう。例えば鉱《あらがね》のように種々な異分子を含んだ自然物でなくって純金と云ったように精錬した忠臣なり孝子なりを意味しております。かく完全な模型を標榜《ひょうぼう》して、それに達し得る念力をもって修養の功を積むべく余儀なくされたのが昔の徳育であります。もう少し細かく申すはずですが、略してまずそのくらいにして次に移ります。
さてこういう風の倫理観や徳育がどんな影響を個人に与えどんな結果を社会に生ずるかを考えて見ますと、まず個人にあってはすでに模範が出来上りまたその模範が完全という資格を具《そな》えたものとしてあるのだから、どうしてもこの模範通りにならなければならん、完全の域に進まなければならんと云う内部の刺激やら外部の鞭撻《べんたつ》があるから、模倣という意味は離れますまいが、その代り生活全体としては、向上の精神に富んだ気概の強い邁往《まいおう》の勇を鼓舞されるような一種感激性の活計を営むようになります。また社会一般から云うと、すでにこういう風な模範的な間然するところなき忠臣孝子貞女を押し立てて、それらの存在を認めるくらいだから、個人に対する一般の倫理上の要求はずいぶん苛酷なものである。また個人の過失に対しては非常に厳格な態度をもっている。少しの過ちがあっても許さない、すぐ命に関係してくる。そうでしょう、昔の人は何ぞと云うと腹を切って申訳をしたのは諸君も御承知である。今では容易に腹を切りません。これは腹を切らないですむからして切らないので、昔だって切りたい腹ではけっしてなかったんでしょう。けれども切らせられる。いわゆる詰腹《つめばら》で、社会の制裁が非常に悪辣苛酷《あくらつかこく》なため生きて人に顔が合わされないからむやみに安く命を棄《す》てるのでしょう。
今の人から見れば、完全かも知れないが実際あるかないか分らない理想的人物を描いて、それらの偶像に向って瞬間の絶間なく努力し感激し、発憤し、また随喜し渇仰して、そうして社会からは徳義上の弱点に対して微塵《みじん》の容赦もなく厳重に取扱われて、よく人が辛抱しておったものだという疑も起るが、これにはいろいろの原因もありましょう。第一には今のように科学的の観察が行届かなかった。つまり人間はどう教育したって不完全なものであると云うことに気がつかなかった。不完全なのは、我々の心掛が至らぬからの横着《おうちゃく》に起因するのだからして、もう少し修養して黒砂糖を白砂糖に精製するような具合に向上しなければならんという考で一生懸命に努力したのである。すなわち昔の人には批判的精神が乏しかった。昔から云い伝えている孝子とか貞女とか称するものが、そっくりそのままの姿で再現できるという信念が強くて、批判的にこれらの模範を視《み》る精神に乏しかったと云うのがおもなる原因でありましょう。一口に云えば科学と云うものがあまり開けなかったからと云ってようございます。のみならずその当時は交通が非常に不便でありまして、東京から大阪へちょっと手紙一本で呼出されて来て講演をすると云うようなことすら、できないとは限りませんが、なかなか億劫《おっくう》でこう手軽には行きません。来るにしても駕籠《かご》に揺られて五十三次を順々に越すのだから、たやすくは間に合いかねます。間に合わないですむとすれば、私がどんな人間であるかは、諸君に知れずにすんでしまう訳である。知られなければよほどえらい人だと思ってくれやしないかと思う。こうやって演壇に立って、フロックコートも着ず、妙な神戸辺の商館の手代が着るような背広などを着てひょこひょこしていては安っぽくていけない。ウンあんな奴《やつ》かという気が起るにきまっている。が駕籠の時代ならそうまで器量を下げずにすんだかも知れない。交通の不便な昔は、山の中に仙人がいると思っておったくらいだから、江戸には漱石といって仙人ではないが、まあ仙人に近い人間がいるそうだぐらいの評判で持ち切って下されば私もはなはだ満足の至りであったろうが、今日《こんにち》汽車電話の世の中ではすでに仙人そのものが消滅したから、仙人に近い人間の価値も自然下落して、商館の手代そのままの風采《ふうさい》を残念ながら諸君の御覧に入れなければならない始末になります。次に、昔は階級制度で社会が括《くく》られていたのだから、階級が違うと容易に接触すらできなくなる場合も多かった。今でも天子様などにはむやみには近づけません。私はまだ拝謁《はいえつ》をしませんが、昔は一般から見て今の天皇陛下以上に近づきがたい階級のものがたくさんおったのです。一国の領主に言葉を交えるのすら平民には大変な異例でしょう。土下座とか云って地面《じべた》へ坐って、ピタリと頭を下げて、肝腎《かんじん》の駕籠《かご》が通る時にはどんな顔の人がいるのかまるで物色する事ができなかった。第一駕籠の中には化物がいるのか人間がいるのかさえ分らなかったくらいのものと聞いています。してみると階級が違えば種類が違うという意味になってその極はどんな人間が世の中にあろうと不思議を挟《はさ》む余地のないくらいに自他の生活に懸隔《けんかく》のある社会制度であった。したがって突拍子《とっぴょうし》もない偉い人間すなわち模範的な忠臣孝子その他が世の中には現にいるという観念がどこかにあったに違ない。
以上の諸原因からして自然模範的の道徳を一般に強《し》いて怪しまなかったのでありましょう。また強いられて黙っていもし、あるいは自《みず》から進んで己に強《し》いもしたのでしょう。ところが維新以後四十四五年を経過した今日になって、この道徳の推移した経路をふり返って見ると、ちゃんと一定の方向があって、ただその方向にのみ遅疑なく流れて来たように見えるのは、社会の現象を研究する学者に取ってはなはだ興味のある事柄《ことがら》と云わなければなりません。しからば維新後の道徳が維新前とどういう風に違って来たかと云うと、かのピタリと理想通りに定った完全の道徳というものを人に強《し》うる勢力がだんだん微弱になるばかりでなく、昔渇仰した理想その物がいつの間《ま》にか偶像視せられて、その代り事実と云うものを土台にしてそれから道徳を造り上げつつ今日《こんにち》まで進んで来たように思われる。人間は完全なものでない、初めは無論、いつまで行っても不純であると、事実の観察に本《もとづ》いた主義を標榜《ひょうぼう》したと云っては間違になるが、自然の成行を逆に点検して四十四年の道徳界を貫いている潮流を一句につづめて見るとこの主義にほかならんように思われるから、つまりは吾々《われわれ》が知らず知らずの間にこの主義を実行して今日に至ったと同じ結果になったのであります。さて自然の事実をそのままに申せば、たといいかな忠臣でも孝子でも貞女でも、一方から云えばそれぞれ相当の美徳を具《そな》えているのは無論であるがこれと同時に一方ではずいぶんいかがわしい欠点をもっている。すなわち忠であり孝であり貞であると共に、不忠でもあり不孝でも不貞でもあると云う事であります。こう言葉に現わして云うと何だか非常に悪くなりますが、いかに至徳の人でもどこかしらに悪いところがあるように、人も解釈し自分でも認めつつあるのは疑もない事実だろうと思うのです。現に私がこうやって演壇に立つのは全然諸君のために立つのである、ただ諸君のために立つのである、と救世軍のようなことを言ったって諸君は承知しないでしょう。誰のために立っているかと聞かれたら、社のために立っている
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