、朝日新聞の広告のために立っている、あるいは夏目漱石を天下に紹介するために立っていると答えられるでしょう。それで宜《よろ》しい。けっして純粋な生一本《きいっぽん》の動機からここに立って大きな声を出しているのではない。この暑さに襟《えり》のグタグタになるほど汗を垂らしてまで諸君のために有益な話をしなければ今晩眠られないというほど奇特《きとく》な心掛は実のところありません。と云ったところでこう見えても、満更《まんざら》好意も人情も無いわがまま一方の男でもない。打ち明けたところを申せば今度の講演を私が断ったって免職になるほどの大事件ではないので、東京に寝ていて、差支《さしつかえ》があるとか健康が許さないとか何《なん》とかかとか言訳の種を拵《こしら》えさえすれば、それですむのです。けれども諸君のためを思い、また社のためを思い、と云うと急に偽善めきますが、まあ義理やら好意やらを加味した動機からさっそく出て来たとすればやはり幾分か善人の面影《おもかげ》もある。有体《ありてい》に白状すれば私は善人でもあり悪人でも――悪人と云うのは自分ながら少々ひどいようだが、まず善悪とも多少|混《まじ》った人間なる一種の代物《しろもの》で、砂もつき泥もつき汚《きた》ない中に金と云うものが有るか無いかぐらいに含まれているくらいのところだろうと思う。私がこういう事を平気で諸君の前で述べて、それであなた方《がた》は笑って聴いているくらいなのだから、今の人は昔に比べるとよほど倫理上の意見についても寛大になっている事が分ります。これが制裁の厳重で模範的行動を他に強《し》いなければやまない旧幕時代であったら、こんな露骨を無遠慮にいう私はきっと社長に叱られます。もし社長が大名だったなら叱られるばかりでなく切腹を仰《おお》せつかるかも知れないところですけれど、明治四十四年の今日は社長だって黙っている。そうしてあなた方は笑っている。これほど世の中は穏かになって来たのです。倫理観の程度が低くなって来たのです。だんだん住みやすい世の中になって御互に仕合《しあわせ》でしょう。
 かく社会が倫理的動物としての吾人に対して人間らしい卑近な徳義を要求してそれで我慢するようになって、完全とか至極《しごく》とか云う理想上の要求を漸次《ぜんじ》に撤回してしまった結果はどうなるかと云うと、まず従前から存在していた評価率(道徳上の)が自然の間に違ってこなければならない訳になります。世の中は恐ろしいもので、だんだんと道徳が崩《くず》れてくるとそれを評価する眼が違ってきます。昔はお辞儀の仕方が気に入らぬと刀の束《つか》へ手をかけた事もありましたろうが、今ではたとい親密な間柄《あいだがら》でも手数のかかるような挨拶《あいさつ》はやらないようであります。それで自他共に不愉快を感ぜずにすむところが私のいわゆる評価率の変化という意味になります。御辞儀などはほんの一例ですが、すべて倫理的意義を含む個人の行為が幾分か従前よりは自由になったため、窮屈の度が取れたため、すなわち昔のように強《し》いて行い、無理にもなすという瘠我慢《やせがまん》も圧迫も微弱になったため、一言にして云えば徳義上の評価がいつとなく推移したため、自分の弱点と認めるようなことを恐れもなく人に話すのみか、その弱点を行為の上に露出して我も怪しまず、人も咎《とが》めぬと云う世の中になったのであります。私は明治維新のちょうど前の年に生れた人間でありますから、今日この聴衆諸君の中《うち》に御見えになる若い方とは違って、どっちかというと中途半端の教育を受けた海陸両棲動物のような怪しげなものでありますが、私らのような年輩の過去に比べると、今の若い人はよほど自由が利《き》いているように見えます。また社会がそれだけの自由を許しているように見えます。漢学塾へ二年でも三年でも通《かよ》った経験のある我々には豪《えら》くもないのに豪そうな顔をしてみたり、性を矯《た》めて瘠我慢《やせがまん》を言い張って見たりする癖がよくあったものです。――今でもだいぶその気味があるかも知れませんが。――ところが今の若い人は存外|淡泊《たんぱく》で、昔のような感激性の詩趣を倫理的に発揮する事はできないかも知れないが、大体吹き抜けの空筒《からづつ》で何でも隠さないところがよい。これは自分を取《と》り繕《つく》ろいたくないという結構な精神の働いている場合もありましょうし、また隠さない明けッ放しの内臓を見せても世間で別段鼻を抓《つま》んで苦《にが》い顔をするものがないからでもありましょうが、私の所へ時々若い人などが初めて訪問に来て、後から手紙などにその時の感想をありのままに書いて送ってくれる場合などでさえ思いもよらぬ告白をする事があるから面白いです。と云って大した弱点を見てくれと云わんばかりに書く訳でもないが、とにかくこっちから頼みはしないので、先方から勝手に寄こすくらいの酔興的な閑文字すなわち一種の意味における芸術品なのだから、もし我々の若い時分の気持で書くとすれば、天下の英雄君と我とのみとまで豪がらないにせよ、習俗的に高雅な観念を会釈《えしゃく》なく文字の上に羅列して快よい一種の刺戟《しげき》を自己の倫理性が受けるように詩趣を発揮するのが通例であるが、今例に引こうとする手紙などにはそんな面影《おもかげ》はまるでない。まず門を入ったら胸騒ぎがしたとか、格子《こうし》を開ける時にベルが鳴ってますます驚いたとか、頼むと案内を乞うておきながら取次《とりつぎ》に出て来た下女が不在《るす》だと言ってくれればよかったと沓脱《くつぬぎ》の前で感じたとか、それが御宅ですという一言で急に帰りたい心持に変化したとか、ところへこちらへ上れとまた取次に出て来られてますます恐縮したとか、すべてそういう弱い神経作用がいささかの飾り気もなく出ている。徳義的批判を含んだ言葉で云えば臆病《おくびょう》とか度胸がないとか云うべき弱点を自由に白状している。たかが夏目漱石の所へ来るのにこうビクビクする必要はあるまいとお思いかも知れませんが実際あるのです。しかし私はこれが今の青年だからあるのだと信じます。旧幕時代の文学のどこをどう尋ねてもこんな意味の訪問感想録はけっして見当るまいと信じます。この春でしたがある所に音楽会がありました。その時に私の知った人が演奏台に立って歌をうたいました。私は招待を受けて一番前の列の真中《まんなか》にいて聴いていました。ところがその歌は下手でした。私は音楽を聞く耳も何も持たない素人《しろうと》ではあるがその人のうたいぶりはすこぶる不味《まず》いように感じました。あとでその人に会って感じた通り不味いと云いました。ところがその音楽家はあの演奏台に立った時、自分の足がブルブル顫《ふる》えるのに気が着いたかと私に聞きます。私は気が着かなかったけれども当人自身は足が顫えたと自白する。昔ならたとい足が顫えても顫えないと云い張ったでしょう。何とか負惜みでも言いたいくらいのところへ持って来て、人の気がつきもしないのに自分の口から足がガクガクしたと自白する。それだけ今の人が淡泊になったのじゃないでしょうか。またこれほど淡泊になれるだけ世間の批判が寛大になったのじゃないでしょうか。人間にそのくらいな弱点はありがちの事だとテンから認めているのじゃないでしょうか。私は昔と今と比べてどっちが善いとか悪いとかいうつもりではない、ただこれだけの区別があると申したいのであります。また過去四十何年間の道徳の傾向は明かにこういう方向に流れつつあるという事実を御認めにならん事を希望するのであります。
 古今道徳の区別はこれで切上げておいて話は突然文芸の方へ移ります。もっとも文芸の方の話を詳《くわ》しく云うつもりではないから、必要な説明だけに留《とど》めて、ごくざっとしたところを申しますが、近年文芸の方で浪漫主義及び自然主義すなわちロマンチシズムとナチュラリズムという二つの言葉が広く行われて参りました。そうしてこの二つの言葉は文芸界専有の術語でその他の方面には全く融通の利《き》かないものであるかのごとく取扱われております。ところが私はこれからこの二つの言葉の意味性質を極《きわ》めて簡略に述べて、そうしてそれを前《ぜん》申上げた昔と今の道徳に結びつけて両方を綜合《そうごう》して御覧に入れようと思うのです。つまり浪漫主義も自然主義も文芸家専有の言語ではないという意味が分ればその結果自然の勢いでこれらがまた前説明した二種の道徳と関係して来ると云うのであります。
 この浪漫主義自然主義の文学についてちょっと申上げる前にあらかじめ諸君の御注意を煩《わずら》わしておきたい事がありますが、前も御断り申したごとく今日のお話はすべて道徳と文芸との交渉関係でありますから、二種類の文学のうち(ことに浪漫主義の文学のうち)道徳の分子の交って来ないものは頭から取除《とりの》けて考えていただきたい。それからよし道徳の分子が交っていても倫理的観念が何らの挑撥《ちょうはつ》を受けない――否受け得べからざるていの文学もまた取り除《の》けて考えていただきたい。それらを除いた上でこの二種類の文学を見渡して見ると浪漫主義の文学にあってはその中に出てくる人物の行為心術が我々より偉大であるとか、公明であるとか、あるいは感激性に富んでいるとかの点において、読者が倫理的に向上遷善の刺戟《しげき》を受けるのがその特色になっています。この影響は昔し流行《はや》った勧善懲悪《かんぜんちょうあく》という言葉と関係はありますが、けっして同じではない。ずっと高尚の意味で云うのですから誤解のないように願います。また自然主義の文学では人間をそう伝説的の英雄の末孫か何かであるようにもったいをつけてありがたそうには書かない。したがって読者も作者も倫理上の感激には乏しい。ことによると人間の弱点だけを綴《つづ》り合せたように見える作物もできるのみならず往々《おうおう》その弱点がわざとらしく誇張される傾《かたむ》きさえあるが、つまりは普通の人間をただありのままの姿に描《えが》くのであるから、道徳に関する方面の行為も疵瑕《しか》交出するということは免《まぬ》かれない。ただこういうあさましいところのあるのも人間本来の真相だと自分でも首肯《うなず》き他《ひと》にも合点《がてん》させるのを特色としている。この二つの文学を詳《くわ》しく説明すればそれだけで大分時間が経ちますから、まあ誰も知っているぐらいの説明で御免《ごめん》を蒙《こうむ》って、この二つの文学が前の二傾向の道徳をその作物中に反射しているということにさえ気がつけば、ここに始めて文芸と道徳とがいずれの点において関係があるかと云うことも明かになって来ようと思います。
 返す返す申すようですが題がすでに文芸と道徳でありますから、道徳の関係しない文芸のことは全然論外に置いて考えないと誤解を招きやすいのであります。道徳に関係の無い文芸の御話をすれば幾らでもありますが、例えば今私がここへ立ってむずかしい顔をして諸君を眼下に見て何か話をしている最中に何かの拍子《ひょうし》で、卑陋《ひろう》な御話ではあるが、大きな放屁《ほうひ》をするとする。そうすると諸君は笑うだろうか、怒《おこ》るだろうか。そこが問題なのである。と云うといかにも人を馬鹿にしたような申し分であるが、私は諸君が笑うか怒るかでこの事件を二様に解釈できると思う。まず私の考では相手が諸君のごとき日本人なら笑うだろうと思う。もっとも実際やってみなければ分らない話だからどっちでも構わんようなものだけれども、どうも諸君なら笑いそうである。これに反して相手が西洋人だと怒りそうである。どうしてこう云う結果の相違を来すかというと、それは同じ行為に対する見方が違うからだと言わなければならない。すなわち西洋人が相手の場合には私の卑陋《ひろう》のふるまいを一図に徳義的に解釈して不徳義――何も不徳義と云うほどの事もないでしょうが、とにかく礼を失していると見て、その方面から怒るかも知れません。ところが日本人だと存外単純に
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