自分もいつこういう過失を犯さぬとも限らぬと云う寂寞《じゃくまく》の感も同時にこれに伴うでしょう。己惚《うぬぼれ》の面を剥《は》ぎ取って真直な腰を低くするのはむしろそういう文学の影響と言わなければなりません。もし自然派の作物でありながらこういう健全な目的を達することができなければ、それこそ作物自身が悪いのであると云わなければならない。悪いという意味は作物が出来損《できそこな》っているのです、どこか欠点があると云うのです。前《ぜん》説明した言葉を用いて評すれば、そういう作物にはどこか不道徳の分子がある、すなわちどこか非芸術のところがある、すなわちどこか偽りを書いているのだという事に帰着するのです。ありのままの本当をありのままに書く正直という美徳があればそれが自然と芸術的になり、その芸術的の筆がまた自然善い感化を人に与えるのは前段の分解的記述によってもう御会得《ごえとく》になった事と思います。自然主義に道義の分子があるという事はあまり人の口にしないところですからわざわざ長々と弁じました。もっともただ新らしい私の考だから御吹聴《ごふいちょう》をするという次第ではありません。御承知の通り演題が「
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