自然の間に違ってこなければならない訳になります。世の中は恐ろしいもので、だんだんと道徳が崩《くず》れてくるとそれを評価する眼が違ってきます。昔はお辞儀の仕方が気に入らぬと刀の束《つか》へ手をかけた事もありましたろうが、今ではたとい親密な間柄《あいだがら》でも手数のかかるような挨拶《あいさつ》はやらないようであります。それで自他共に不愉快を感ぜずにすむところが私のいわゆる評価率の変化という意味になります。御辞儀などはほんの一例ですが、すべて倫理的意義を含む個人の行為が幾分か従前よりは自由になったため、窮屈の度が取れたため、すなわち昔のように強《し》いて行い、無理にもなすという瘠我慢《やせがまん》も圧迫も微弱になったため、一言にして云えば徳義上の評価がいつとなく推移したため、自分の弱点と認めるようなことを恐れもなく人に話すのみか、その弱点を行為の上に露出して我も怪しまず、人も咎《とが》めぬと云う世の中になったのであります。私は明治維新のちょうど前の年に生れた人間でありますから、今日この聴衆諸君の中《うち》に御見えになる若い方とは違って、どっちかというと中途半端の教育を受けた海陸両棲動物のような怪しげなものでありますが、私らのような年輩の過去に比べると、今の若い人はよほど自由が利《き》いているように見えます。また社会がそれだけの自由を許しているように見えます。漢学塾へ二年でも三年でも通《かよ》った経験のある我々には豪《えら》くもないのに豪そうな顔をしてみたり、性を矯《た》めて瘠我慢《やせがまん》を言い張って見たりする癖がよくあったものです。――今でもだいぶその気味があるかも知れませんが。――ところが今の若い人は存外|淡泊《たんぱく》で、昔のような感激性の詩趣を倫理的に発揮する事はできないかも知れないが、大体吹き抜けの空筒《からづつ》で何でも隠さないところがよい。これは自分を取《と》り繕《つく》ろいたくないという結構な精神の働いている場合もありましょうし、また隠さない明けッ放しの内臓を見せても世間で別段鼻を抓《つま》んで苦《にが》い顔をするものがないからでもありましょうが、私の所へ時々若い人などが初めて訪問に来て、後から手紙などにその時の感想をありのままに書いて送ってくれる場合などでさえ思いもよらぬ告白をする事があるから面白いです。と云って大した弱点を見てくれと云わんばかりに書く訳でもないが、とにかくこっちから頼みはしないので、先方から勝手に寄こすくらいの酔興的な閑文字すなわち一種の意味における芸術品なのだから、もし我々の若い時分の気持で書くとすれば、天下の英雄君と我とのみとまで豪がらないにせよ、習俗的に高雅な観念を会釈《えしゃく》なく文字の上に羅列して快よい一種の刺戟《しげき》を自己の倫理性が受けるように詩趣を発揮するのが通例であるが、今例に引こうとする手紙などにはそんな面影《おもかげ》はまるでない。まず門を入ったら胸騒ぎがしたとか、格子《こうし》を開ける時にベルが鳴ってますます驚いたとか、頼むと案内を乞うておきながら取次《とりつぎ》に出て来た下女が不在《るす》だと言ってくれればよかったと沓脱《くつぬぎ》の前で感じたとか、それが御宅ですという一言で急に帰りたい心持に変化したとか、ところへこちらへ上れとまた取次に出て来られてますます恐縮したとか、すべてそういう弱い神経作用がいささかの飾り気もなく出ている。徳義的批判を含んだ言葉で云えば臆病《おくびょう》とか度胸がないとか云うべき弱点を自由に白状している。たかが夏目漱石の所へ来るのにこうビクビクする必要はあるまいとお思いかも知れませんが実際あるのです。しかし私はこれが今の青年だからあるのだと信じます。旧幕時代の文学のどこをどう尋ねてもこんな意味の訪問感想録はけっして見当るまいと信じます。この春でしたがある所に音楽会がありました。その時に私の知った人が演奏台に立って歌をうたいました。私は招待を受けて一番前の列の真中《まんなか》にいて聴いていました。ところがその歌は下手でした。私は音楽を聞く耳も何も持たない素人《しろうと》ではあるがその人のうたいぶりはすこぶる不味《まず》いように感じました。あとでその人に会って感じた通り不味いと云いました。ところがその音楽家はあの演奏台に立った時、自分の足がブルブル顫《ふる》えるのに気が着いたかと私に聞きます。私は気が着かなかったけれども当人自身は足が顫えたと自白する。昔ならたとい足が顫えても顫えないと云い張ったでしょう。何とか負惜みでも言いたいくらいのところへ持って来て、人の気がつきもしないのに自分の口から足がガクガクしたと自白する。それだけ今の人が淡泊になったのじゃないでしょうか。またこれほど淡泊になれるだけ世間の批判が寛大になったのじゃないでしょうか。
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