人間にそのくらいな弱点はありがちの事だとテンから認めているのじゃないでしょうか。私は昔と今と比べてどっちが善いとか悪いとかいうつもりではない、ただこれだけの区別があると申したいのであります。また過去四十何年間の道徳の傾向は明かにこういう方向に流れつつあるという事実を御認めにならん事を希望するのであります。
 古今道徳の区別はこれで切上げておいて話は突然文芸の方へ移ります。もっとも文芸の方の話を詳《くわ》しく云うつもりではないから、必要な説明だけに留《とど》めて、ごくざっとしたところを申しますが、近年文芸の方で浪漫主義及び自然主義すなわちロマンチシズムとナチュラリズムという二つの言葉が広く行われて参りました。そうしてこの二つの言葉は文芸界専有の術語でその他の方面には全く融通の利《き》かないものであるかのごとく取扱われております。ところが私はこれからこの二つの言葉の意味性質を極《きわ》めて簡略に述べて、そうしてそれを前《ぜん》申上げた昔と今の道徳に結びつけて両方を綜合《そうごう》して御覧に入れようと思うのです。つまり浪漫主義も自然主義も文芸家専有の言語ではないという意味が分ればその結果自然の勢いでこれらがまた前説明した二種の道徳と関係して来ると云うのであります。
 この浪漫主義自然主義の文学についてちょっと申上げる前にあらかじめ諸君の御注意を煩《わずら》わしておきたい事がありますが、前も御断り申したごとく今日のお話はすべて道徳と文芸との交渉関係でありますから、二種類の文学のうち(ことに浪漫主義の文学のうち)道徳の分子の交って来ないものは頭から取除《とりの》けて考えていただきたい。それからよし道徳の分子が交っていても倫理的観念が何らの挑撥《ちょうはつ》を受けない――否受け得べからざるていの文学もまた取り除《の》けて考えていただきたい。それらを除いた上でこの二種類の文学を見渡して見ると浪漫主義の文学にあってはその中に出てくる人物の行為心術が我々より偉大であるとか、公明であるとか、あるいは感激性に富んでいるとかの点において、読者が倫理的に向上遷善の刺戟《しげき》を受けるのがその特色になっています。この影響は昔し流行《はや》った勧善懲悪《かんぜんちょうあく》という言葉と関係はありますが、けっして同じではない。ずっと高尚の意味で云うのですから誤解のないように願います。また自然主義の文学では人間をそう伝説的の英雄の末孫か何かであるようにもったいをつけてありがたそうには書かない。したがって読者も作者も倫理上の感激には乏しい。ことによると人間の弱点だけを綴《つづ》り合せたように見える作物もできるのみならず往々《おうおう》その弱点がわざとらしく誇張される傾《かたむ》きさえあるが、つまりは普通の人間をただありのままの姿に描《えが》くのであるから、道徳に関する方面の行為も疵瑕《しか》交出するということは免《まぬ》かれない。ただこういうあさましいところのあるのも人間本来の真相だと自分でも首肯《うなず》き他《ひと》にも合点《がてん》させるのを特色としている。この二つの文学を詳《くわ》しく説明すればそれだけで大分時間が経ちますから、まあ誰も知っているぐらいの説明で御免《ごめん》を蒙《こうむ》って、この二つの文学が前の二傾向の道徳をその作物中に反射しているということにさえ気がつけば、ここに始めて文芸と道徳とがいずれの点において関係があるかと云うことも明かになって来ようと思います。
 返す返す申すようですが題がすでに文芸と道徳でありますから、道徳の関係しない文芸のことは全然論外に置いて考えないと誤解を招きやすいのであります。道徳に関係の無い文芸の御話をすれば幾らでもありますが、例えば今私がここへ立ってむずかしい顔をして諸君を眼下に見て何か話をしている最中に何かの拍子《ひょうし》で、卑陋《ひろう》な御話ではあるが、大きな放屁《ほうひ》をするとする。そうすると諸君は笑うだろうか、怒《おこ》るだろうか。そこが問題なのである。と云うといかにも人を馬鹿にしたような申し分であるが、私は諸君が笑うか怒るかでこの事件を二様に解釈できると思う。まず私の考では相手が諸君のごとき日本人なら笑うだろうと思う。もっとも実際やってみなければ分らない話だからどっちでも構わんようなものだけれども、どうも諸君なら笑いそうである。これに反して相手が西洋人だと怒りそうである。どうしてこう云う結果の相違を来すかというと、それは同じ行為に対する見方が違うからだと言わなければならない。すなわち西洋人が相手の場合には私の卑陋《ひろう》のふるまいを一図に徳義的に解釈して不徳義――何も不徳義と云うほどの事もないでしょうが、とにかく礼を失していると見て、その方面から怒るかも知れません。ところが日本人だと存外単純に
前へ 次へ
全10ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング