に自他の生活に懸隔《けんかく》のある社会制度であった。したがって突拍子《とっぴょうし》もない偉い人間すなわち模範的な忠臣孝子その他が世の中には現にいるという観念がどこかにあったに違ない。
以上の諸原因からして自然模範的の道徳を一般に強《し》いて怪しまなかったのでありましょう。また強いられて黙っていもし、あるいは自《みず》から進んで己に強《し》いもしたのでしょう。ところが維新以後四十四五年を経過した今日になって、この道徳の推移した経路をふり返って見ると、ちゃんと一定の方向があって、ただその方向にのみ遅疑なく流れて来たように見えるのは、社会の現象を研究する学者に取ってはなはだ興味のある事柄《ことがら》と云わなければなりません。しからば維新後の道徳が維新前とどういう風に違って来たかと云うと、かのピタリと理想通りに定った完全の道徳というものを人に強《し》うる勢力がだんだん微弱になるばかりでなく、昔渇仰した理想その物がいつの間《ま》にか偶像視せられて、その代り事実と云うものを土台にしてそれから道徳を造り上げつつ今日《こんにち》まで進んで来たように思われる。人間は完全なものでない、初めは無論、いつまで行っても不純であると、事実の観察に本《もとづ》いた主義を標榜《ひょうぼう》したと云っては間違になるが、自然の成行を逆に点検して四十四年の道徳界を貫いている潮流を一句につづめて見るとこの主義にほかならんように思われるから、つまりは吾々《われわれ》が知らず知らずの間にこの主義を実行して今日に至ったと同じ結果になったのであります。さて自然の事実をそのままに申せば、たといいかな忠臣でも孝子でも貞女でも、一方から云えばそれぞれ相当の美徳を具《そな》えているのは無論であるがこれと同時に一方ではずいぶんいかがわしい欠点をもっている。すなわち忠であり孝であり貞であると共に、不忠でもあり不孝でも不貞でもあると云う事であります。こう言葉に現わして云うと何だか非常に悪くなりますが、いかに至徳の人でもどこかしらに悪いところがあるように、人も解釈し自分でも認めつつあるのは疑もない事実だろうと思うのです。現に私がこうやって演壇に立つのは全然諸君のために立つのである、ただ諸君のために立つのである、と救世軍のようなことを言ったって諸君は承知しないでしょう。誰のために立っているかと聞かれたら、社のために立っている、朝日新聞の広告のために立っている、あるいは夏目漱石を天下に紹介するために立っていると答えられるでしょう。それで宜《よろ》しい。けっして純粋な生一本《きいっぽん》の動機からここに立って大きな声を出しているのではない。この暑さに襟《えり》のグタグタになるほど汗を垂らしてまで諸君のために有益な話をしなければ今晩眠られないというほど奇特《きとく》な心掛は実のところありません。と云ったところでこう見えても、満更《まんざら》好意も人情も無いわがまま一方の男でもない。打ち明けたところを申せば今度の講演を私が断ったって免職になるほどの大事件ではないので、東京に寝ていて、差支《さしつかえ》があるとか健康が許さないとか何《なん》とかかとか言訳の種を拵《こしら》えさえすれば、それですむのです。けれども諸君のためを思い、また社のためを思い、と云うと急に偽善めきますが、まあ義理やら好意やらを加味した動機からさっそく出て来たとすればやはり幾分か善人の面影《おもかげ》もある。有体《ありてい》に白状すれば私は善人でもあり悪人でも――悪人と云うのは自分ながら少々ひどいようだが、まず善悪とも多少|混《まじ》った人間なる一種の代物《しろもの》で、砂もつき泥もつき汚《きた》ない中に金と云うものが有るか無いかぐらいに含まれているくらいのところだろうと思う。私がこういう事を平気で諸君の前で述べて、それであなた方《がた》は笑って聴いているくらいなのだから、今の人は昔に比べるとよほど倫理上の意見についても寛大になっている事が分ります。これが制裁の厳重で模範的行動を他に強《し》いなければやまない旧幕時代であったら、こんな露骨を無遠慮にいう私はきっと社長に叱られます。もし社長が大名だったなら叱られるばかりでなく切腹を仰《おお》せつかるかも知れないところですけれど、明治四十四年の今日は社長だって黙っている。そうしてあなた方は笑っている。これほど世の中は穏かになって来たのです。倫理観の程度が低くなって来たのです。だんだん住みやすい世の中になって御互に仕合《しあわせ》でしょう。
かく社会が倫理的動物としての吾人に対して人間らしい卑近な徳義を要求してそれで我慢するようになって、完全とか至極《しごく》とか云う理想上の要求を漸次《ぜんじ》に撤回してしまった結果はどうなるかと云うと、まず従前から存在していた評価率(道徳上の)が
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