見做《みな》して、徳義的の批判を下す前にまず滑稽《こっけい》を感じて噴《ふ》き出《だ》すだろうと思うのです。私のしかつめらしい態度と堂々たる演題とに心を傾《かたむ》けて、ある程度まで厳粛の気分を未来に延長しようという予期のある矢先へ、突然人前では憚《はばか》るべき異な音を立てられたのでその矛盾の刺激に堪《た》えないからです。この笑う刹那《せつな》には倫理上の観念は毫《ごう》も頭を擡《もた》げる余地を見出し得ない訳ですから、たとい道徳的批判を下すべき分子が混入してくる事件についても、これを徳義的に解釈しないで、徳義とはまるで関係のない滑稽《こっけい》とのみ見る事もできるものだと云う例証になります。けれどももし倫理的の分子が倫理的に人を刺戟《しげき》するようにまたそれを無関係の他の方面にそらす事ができぬように作物中に入込んで来たならば、道徳と文芸というものは、けっして切り離す事のできないものであります。両者は元来別物であって各独立したものであるというような説も或る意味から云えば真理ではあるが、近来の日本の文士のごとく根柢《こんてい》のある自信も思慮もなしに道徳は文芸に不必要であるかのごとく主張するのははなはだ世人を迷わせる盲者の盲論と云わなければならない。文芸の目的が徳義心を鼓吹《こすい》するのを根本義にしていない事は論理上しかるべき見解ではあるが、徳義的の批判を許すべき事件が経となり緯となりて作物中に織り込まれるならば、またその事件が徳義的平面において吾人に善悪邪正の刺戟《しげき》を与えるならば、どうして両者をもって没交渉とする事ができよう。
道徳と文芸の関係は大体においてかくのごときものであるが、なお前に挙《あ》げた浪漫自然二主義についてこれらがどういう風に道徳と交渉しているかをもう少し明暸《めいりょう》に調べてみる必要があると思います。すなわちこの二種の文学についてどこが道徳的でどこが芸術的であるかを分解比較して一々点検するのであります。こうすれば文芸と道徳の関係が一層明暸になるのみならず、また浪漫自然二文学の関係もまた一段と判然《はっきり》するだろうと思います。第一、浪漫派の内容から言うと、前《ぜん》申した通り忠臣が出て来たり、孝子が出て来たり、貞女が出て来たり、その他いろいろの人物が出て来て、すべて読者の徳性を刺激してその刺激に依って事をなす、すなわち読者を
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