動かそうと云う方法を講じますから、その刺激を与える点は取《と》りも直《なお》さず道義的であると同時に芸術的に違ない。(文学と云うものが感情性のものであって、吾人の感情を挑撥《ちょうはつ》喚起するのがその根本義とすれば)かく浪漫派は内容の上から云って芸術的であるけれども、その内容の取扱方に至るとあるいは非芸術的かも知れません。という意味はどうもその書き方によくない目的があるらしい。こういう事件をこう写してこう感動させてやろうとかこう鼓舞してやろうとか、述作そのものに興味があるよりも、あらかじめ胸に一物《いちもつ》があって、それを土台に人を乗せようとしたがる。どうもややともするとそこに厭味《いやみ》が出て来る。私が今晩こうやって演説をするにしても、私の一字一句に私と云うものがつきまつわっておってどうかして笑わせてやろう、どうかして泣かせてやろうと擽《くすぐ》ったり辛子《からし》を甞《な》めさせるような故意の痕跡が見え透《す》いたら定めし御聴き辛《づら》いことで、ために芸術品として見たる私の講演は大いに価値を損ずるごとく、いかに内容が良くても、言い方、取扱い方、書き方が、読者を釣ってやろうとか、挑撥《ちょうはつ》してやろうとかすべて故意の趣があれば、その故意《わざ》とらしいところ不自然なところはすなわち芸術としての品位に関《かかわ》って来るのです。こういう欠点を芸術上には厭味《いやみ》といって非難するのです。これに反して自然主義から云えば道義の念に訴えて芸術上の成功を収めるのが本領でないから、作中にはずいぶん汚ない事も出て来る、鼻持のならない事も書いてある。けれどもそれが道心を沈滞せしめて向下堕落の傾向を助長する結果を生ずるならばそれは作家か読者かどっちかが悪いので、不善挑撥もまたけっしてこの種の文学の主意でない事は論理的に証明できるのである。したがって善悪両面ともに感激性の素因に乏しいという点から見て、そこが芸術的でないと難を打つ事はできる。その代りその書きぶりや事件の取扱方に至っては本来がただありのままの姿を淡泊に写すのであるから厭味に陥《おちい》る事は少ない。厭味とか厭味でないとかいう事は前にも芸術上の批判であると御断りしておきましたが、これが同時に徳義上の批判にもなるからして自然主義の文芸は内容のいかんにかかわらずやはり道徳と密接な縁を引いているのであります。とい
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