の文学では人間をそう伝説的の英雄の末孫か何かであるようにもったいをつけてありがたそうには書かない。したがって読者も作者も倫理上の感激には乏しい。ことによると人間の弱点だけを綴《つづ》り合せたように見える作物もできるのみならず往々《おうおう》その弱点がわざとらしく誇張される傾《かたむ》きさえあるが、つまりは普通の人間をただありのままの姿に描《えが》くのであるから、道徳に関する方面の行為も疵瑕《しか》交出するということは免《まぬ》かれない。ただこういうあさましいところのあるのも人間本来の真相だと自分でも首肯《うなず》き他《ひと》にも合点《がてん》させるのを特色としている。この二つの文学を詳《くわ》しく説明すればそれだけで大分時間が経ちますから、まあ誰も知っているぐらいの説明で御免《ごめん》を蒙《こうむ》って、この二つの文学が前の二傾向の道徳をその作物中に反射しているということにさえ気がつけば、ここに始めて文芸と道徳とがいずれの点において関係があるかと云うことも明かになって来ようと思います。
返す返す申すようですが題がすでに文芸と道徳でありますから、道徳の関係しない文芸のことは全然論外に置いて考えないと誤解を招きやすいのであります。道徳に関係の無い文芸の御話をすれば幾らでもありますが、例えば今私がここへ立ってむずかしい顔をして諸君を眼下に見て何か話をしている最中に何かの拍子《ひょうし》で、卑陋《ひろう》な御話ではあるが、大きな放屁《ほうひ》をするとする。そうすると諸君は笑うだろうか、怒《おこ》るだろうか。そこが問題なのである。と云うといかにも人を馬鹿にしたような申し分であるが、私は諸君が笑うか怒るかでこの事件を二様に解釈できると思う。まず私の考では相手が諸君のごとき日本人なら笑うだろうと思う。もっとも実際やってみなければ分らない話だからどっちでも構わんようなものだけれども、どうも諸君なら笑いそうである。これに反して相手が西洋人だと怒りそうである。どうしてこう云う結果の相違を来すかというと、それは同じ行為に対する見方が違うからだと言わなければならない。すなわち西洋人が相手の場合には私の卑陋《ひろう》のふるまいを一図に徳義的に解釈して不徳義――何も不徳義と云うほどの事もないでしょうが、とにかく礼を失していると見て、その方面から怒るかも知れません。ところが日本人だと存外単純に
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