文芸とヒロイツク
夏目漱石

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)頭《あたま》から極《き》めてかゝつてゐる

《〔〕》:底本の編集部による、現代仮名遣いのルビ
(例)尤《〔もっと〕》も

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)矛盾|扞格《〔かんかく〕》の意

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)ごろ/\して
−−

 自然主義といふ言葉とヒロイツクと云ふ文字は仙台平《〔せんだいひら〕》の袴と唐桟《〔とうざん〕》の前掛の様に懸け離れたものである。従つて自然主義を口にする人はヒロイツクを描かない。実際そんな形容のつく行為は二十世紀には無い筈だと頭《あたま》から極《き》めてかゝつてゐる。尤《〔もっと〕》もである。
 けれども実際世の中にない又は少ないと云ふ事実と、馬鹿げてゐる、滑稽であると云ふ事実とは違ふべき筈である。吾々の見渡した世間にさう眼につく程ごろ/\してゐない物のうちには、常人さへ唾棄《〔だき〕》して顧みなくなつた(従つて存在の権利を失つた)のも沢山あるだらうが、貴重なため容易に手に入りかねるのも随分あるべき訳である。ヒロイツクは後者に属すべきものと思ふ。
 自然派の人が滅多にないからと云ふ理由でヒロイツクを描かないのは当を得てゐる。然し滅多にないからと云ふ言辞のもとにヒロイツクを軽蔑するのは論理の昏乱《〔こんらん〕》である。此《〔この〕》派の人々は現実を描くと云ふ。さうして現実曝露の悲哀を感ずるといふ。客観の真相に着して主観の苦悶を覚ゆるといふ。一々賛成である。けれども此苦悶は意の如くならざる事相《〔じそう〕》に即し、思ひの儘に行かぬ現象の推移に即し、もしくは斯《〔か〕》くあれかし、斯くありたしとの希望を容《〔い〕》れぬ自然の器械的なる進行に即して起る矛盾|扞格《〔かんかく〕》の意に外ならぬ。云ひ換《〔かえ〕》れば客観の世界が主観の世界と一致をかくが為である。現実が吾《〔われ〕》に伴はざるの恨みである。又云ひ換ればわが理想がわが頭の中に孤立して、世態とあまりに没交渉なるがためである。冷刻なる自然がわが知識と情操と意志を侮蔑して勝手に横着に非人間的に社会を動かして行くからである。
 自然主義者の所謂《〔いわゆる〕》主観の苦悶を斯《〔か〕》く解釈するとき、理想の二字を彼等の主観中より取り去る
次へ
全3ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング