事は困難とならねばならぬ。広義に於ける理想を抱かざるものが、自己又は他人の経過した現実を顧みて、之《〔これ〕》を悲しむの必要もなければ之に悶《もだ》ゆるの理由もない筈である。
 一たび此論断を肯《〔うけが〕》つたとき、彼等は彼等の主観のうちに、又彼等の理想のうちに、彼等の平素排斥しつゝあるが如く見ゆる諸《もろ/\》の善、諸《もろ/\》の美、又もろ/\の壮と烈との存在を肯はねばならぬ。従つてヒロイツクは彼等の主張せんと欲して、現実に見出しがたきが為めに、これを描くを憚《〔はばか〕》り、もしくは之《〔これ〕》を描くを恐るゝ一種の行為と云はねばならぬ。
 彼等にしてもし現実中に此行為を見出し得たるとき、彼等の憚りも彼等の恐れも一掃にして拭ひ去るを得べきである。況《〔いわ〕》んや彼等の軽蔑をや虚偽|呼《〔よばわ〕》りをやである。余は近時潜航艇中に死せる佐久間艇長の遺書を読んで、此ヒロイツクなる文字の、我等と時を同《〔おなじ〕》くする日本の軍人によつて、器械的の社会の中に赫《〔かく〕》として一時に燃焼せられたるを喜ぶものである。自然派の諸君子に、此文字の、今日の日本に於て猶《〔なお〕》真個の生命あるを事実の上に於て証拠立て得たるを賀するものである。彼等の脳中よりヒロイツクを描く事の憚りと恐れとを取り去つて、随意に此方面に手を着けしむるの保証と安心とを与へ得たるを慶《けい》するものである。
 往時英国の潜航艇に同様不幸の事のあつた時、艇員は争つて死を免かれんとするの一念から、一所にかたまつて水明《みづあか》りの洩れる窓の下に折り重《〔かさな〕》つたまゝ死んでゐたといふ。本能の如何に義務心より強いかを証明するに足るべき有力な出来事である。本能の権威のみを説かんとする自然派の小説家はこゝに好個の材料を見出すであらう。さうして或る手腕家によつて、此一事実から傑出した文学を作り上げる事が出来るだらう。けれども現実はこれ丈である。其他は嘘《うそ》であると主張する自然派の作家は、一方に於て佐久間艇長と其部下の死と、艇長の遺書を見る必要がある。さうして重荷を担ふて遠きを行く獣類と撰《えら》ぶ所なき現代的の人間にも、亦《〔また〕》此種不可思議の行為があると云ふ事を知る必要がある。自然派の作物は狭い文壇の中《なか》にさへ通用すれば差支ないと云ふ自殺的態度を取らぬ限りは、彼等と雖《〔いえども〕》亦
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