ってちょっと御通知を願います。さよなら」
 敬太郎は手紙を畳んで机の抽出《ひきだし》へ入れたなり、主人夫婦へは森本の消息について、何事も語らなかった。洋杖は依然として、傘入の中に差さっていた。敬太郎は出入《でいり》の都度《つど》、それを見るたびに一種妙な感に打たれた。


     停留所

        一

 敬太郎《けいたろう》に須永《すなが》という友達があった。これは軍人の子でありながら軍人が大嫌《だいきらい》で、法律を修《おさ》めながら役人にも会社員にもなる気のない、至って退嬰主義《たいえいしゅぎ》の男であった。少くとも敬太郎にはそう見えた。もっとも父はよほど以前に死んだとかで、今では母とたった二人ぎり、淋《さみ》しいような、また床《ゆか》しいような生活を送っている。父は主計官としてだいぶ好い地位にまで昇《のぼ》った上、元来が貨殖《かしょく》の道に明らかな人であっただけ、今では母子共《おやことも》衣食の上に不安の憂《うれい》を知らない好い身分である。彼の退嬰主義も半《なか》ばはこの安泰な境遇に慣《な》れて、奮闘の刺戟《しげき》を失った結果とも見られる。というものは、父が比較的立派な地位にいたせいか、彼には世間体《せけんてい》の好いばかりでなく、実際ためになる親類があって、いくらでも出世の世話をしてやろうというのに、彼は何だかだと手前勝手ばかり並べて、今もってぐずぐずしているのを見ても分る。
「そう贅沢《ぜいたく》ばかり云ってちゃもったいない。厭《いや》なら僕に譲るがいい」と敬太郎は冗談《じょうだん》半分に須永を強請《せび》ることもあった。すると須永は淋《さび》しそうなまた気の毒そうな微笑を洩《も》らして、「だって君じゃいけないんだから仕方がないよ」と断るのが常であった。断られる敬太郎は冗談にせよ好い心持はしなかった。おれはおれでどうかするという気概も起して見た。けれども根が執念深《しゅうねんぶか》くない性質《たち》だから、これしきの事で須永に対する反抗心などが永く続きようはずがなかった。その上身分が定まらないので、気の落ちつく背景を有《も》たない彼は、朝から晩まで下宿の一《ひ》と間《ま》にじっと坐っている苦痛に堪《た》えなかった。用がなくっても半日は是非出て歩《あ》るいた。そうしてよく須永の家《うち》を訪問《おとず》れた。一つはいつ行っても大抵留守の事がないので、行く敬太郎の方でも張合があったのかも知れない。
「糊口《くち》も糊口[#「糊口」は底本では「口糊」]だが、糊口より先に、何か驚嘆に価《あたい》する事件に会いたいと思ってるが、いくら電車に乗って方々歩いても全く駄目だね。攫徒《すり》にさえ会わない」などと云うかと思うと、「君、教育は一種の権利かと思っていたら全く一種の束縛《そくばく》だね。いくら学校を卒業したって食うに困るようじゃ何の権利かこれあらんやだ。それじゃ位地《いち》はどうでもいいから思う存分勝手な真似《まね》をして構わないかというと、やっぱり構うからね。厭《いや》に人を束縛するよ教育が」と忌々《いまいま》しそうに嘆息する事がある。須永は敬太郎のいずれの不平に対しても余り同情がないらしかった。第一彼の態度からしてが本当に真面目《まじめ》なのだか、またはただ空焦燥《からはしゃぎ》に焦燥いでいるのか見分がつかなかったのだろう。ある時須永はあまり敬太郎がこういうような浮ずった事ばかり言い募《つの》るので、「それじゃ君はどんな事がして見たいのだ。衣食問題は別として」と聞いた。敬太郎は警視庁の探偵見たような事がして見たいと答えた。
「じゃするが好いじゃないか、訳ないこった」
「ところがそうは行かない」
 敬太郎は本気になぜ自分に探偵ができないかという理由を述べた。元来探偵なるものは世間の表面から底へ潜《もぐ》る社会の潜水夫のようなものだから、これほど人間の不思議を攫《つか》んだ職業はたんとあるまい。それに彼らの立場は、ただ他《ひと》の暗黒面を観察するだけで、自分と堕落してかかる危険性を帯びる必要がないから、なおの事都合がいいには相違ないが、いかんせんその目的がすでに罪悪の暴露《ばくろ》にあるのだから、あらかじめ人を陥《おとしい》れようとする成心の上に打ち立てられた職業である。そんな人の悪い事は自分にはできない。自分はただ人間の研究者|否《いな》人間の異常なる機関《からくり》が暗い闇夜《やみよ》に運転する有様を、驚嘆の念をもって眺《なが》めていたい。――こういうのが敬太郎の主意であった。須永は逆《さから》わずに聞いていたが、これという批判の言葉も放たなかった。それが敬太郎には老成と見えながらその実平凡なのだとしか受取れなかった。しかも自分を相手にしないような落ちつき払った風のあるのを悪《にく》く思って別れた。けれども五日と経《た》たないうちにまた須永の宅《うち》へ行きたくなって、表へ出ると直《すぐ》神田行の電車に乗った。

        二

 須永《すなが》はもとの小川亭即ち今の天下堂という高い建物を目標《めじるし》に、須田町の方から右へ小さな横町を爪先上《つまさきのぼ》りに折れて、二三度不規則に曲った極《きわ》めて分り悪《にく》い所にいた。家並《いえなみ》の立て込んだ裏通りだから、山の手と違って無論屋敷を広く取る余地はなかったが、それでも門から玄関まで二間ほど御影《みかげ》の上を渡らなければ、格子先《こうしさき》の電鈴《ベル》に手が届かないくらいの一構《ひとかまえ》であった。もとから自分の持家《もちいえ》だったのを、一時親類の某《なにがし》に貸したなり久しく過ぎたところへ、父が死んだので、無人《ぶにん》の活計《くらし》には場所も広さも恰好《かっこう》だろうという母の意見から、駿河台《するがだい》の本宅を売払ってここへ引移ったのである。もっともそれからだいぶ手を入れた。ほとんど新築したも同然さとかつて須永が説明して聞かせた時に、敬太郎《けいたろう》はなるほどそうかと思って、二階の床柱や天井板《てんじょういた》を見廻した事がある。この二階は須永の書斎にするため、後から継《つ》ぎ足したので、風が強く吹く日には少し揺れる気味はあるが、ほかにこれと云って非の打ちようのない綺麗《きれい》に明かな四畳六畳|二間《ふたま》つづきの室《へや》であった。その室に坐《すわ》っていると、庭に植えた松の枝と、手斧目《ちょうなめ》の付いた板塀《いたべい》の上の方と、それから忍び返しが見えた。縁に出て手摺《てすり》から見下した時、敬太郎は松の根に一面と咲いた鷺草《さぎそう》を眺めて、あの白いものは何だと須永に聞いた事もあった。
 彼は須永を訪問してこの座敷に案内されるたびに、書生と若旦那の区別を判然と心に呼び起さざるを得なかった。そうしてこう小ぢんまり片づいて暮している須永を軽蔑《けいべつ》すると同時に、閑静ながら余裕《よゆう》のあるこの友の生活を羨《うら》やみもした。青年があんなでは駄目だと考えたり、またあんなにもなって見たいと思ったりして、今日も二つの矛盾からでき上った斑《まだら》な興味を懐《ふところ》に、彼は須永を訪問したのである。
 例の小路《こうじ》を二三度曲折して、須永の住居《すま》っている通りの角まで来ると、彼より先に一人の女が須永の門を潜《くぐ》った。敬太郎はただ一目《ひとめ》その後姿を見ただけだったが、青年に共通の好奇心と彼に固有の浪漫趣味《ロマンしゅみ》とが力を合せて、引き摺《ず》るように彼を同じ門前に急がせた。ちょっと覗《のぞ》いて見ると、もう女の影は消えていた。例の通り紅葉《もみじ》を引手《ひきて》に張り込んだ障子《しょうじ》が、閑静に閉《しま》っているだけなのを、敬太郎は少し案外にかつ物足らず眺《なが》めていたが、やがて沓脱《くつぬぎ》の上に脱ぎ捨てた下駄《げた》に気をつけた。その下駄はもちろん女ものであったが、行儀よく向うむきに揃《そろ》っているだけで、下女が手をかけて直した迹《あと》が少しも見えない。敬太郎は下駄の向《むき》と、思ったより早く上《あが》ってしまった女の所作《しょさ》とを継《つ》ぎ合わして、これは取次を乞わずに、独《ひと》りで勝手に障子を開けて這入《はい》った極《きわ》めて懇意の客だろうと推察した。でなければ家《うち》のものだが、それでは少し変である。須永の家《いえ》は彼と彼の母と仲働《なかばたら》きと下女の四人《よつたり》暮しである事を敬太郎はよく知っていたのである。
 敬太郎は須永の門前にしばらく立っていた。今這入った女の動静をそっと塀の外から窺《うかが》うというよりも、むしろ須永とこの女がどんな文《あや》に二人の浪漫《ロマン》を織っているのだろうと想像するつもりであったが、やはり聞耳《ききみみ》は立てていた。けれども内はいつもの通りしんとしていた。艶《なま》めいた女の声どころか、咳嗽《せき》一つ聞えなかった。
「許嫁《いいなずけ》かな」
 敬太郎はまず第一にこう考えたが、彼の想像はそのくらいで落ちつくほど、訓練を受けていなかった。――母は仲働を連れて親類へ行ったから今日は留守である。飯焚《めしたき》は下女部屋に引き下がっている。須永と女とは今差向いで何か私語《ささや》いている。――はたしてそうだとするといつものように格子戸《こうしど》をがらりと開けて頼むと大きな声を出すのも変なものである。あるいは須永も母も仲働もいっしょに出たかも知れない。おさんはきっと昼寝《ひるね》をしている。女はそこへ這入《はい》ったのである。とすれば泥棒である。このまま引返してはすまない。――敬太郎は狐憑《きつねつき》のようにのそりと立っていた。

        三

 すると二階の障子《しょうじ》がすうと開《あ》いて、青い色の硝子瓶《ガラスびん》を提《さ》げた須永《すなが》の姿が不意に縁側《えんがわ》へ現われたので敬太郎《けいたろう》はちょっと吃驚《びっくり》した。
「何をしているんだ。落し物でもしたのかい」と上から不思議そうに聞きかける須永を見ると、彼は咽喉《のど》の周囲《まわり》に白いフラネルを捲《ま》いていた。手に提《さ》げたのは含嗽剤《がんそうざい》らしい。敬太郎は上を向いて、風邪《かぜ》を引いたのかとか何とか二三言葉を換《か》わしたが、依然として表に立ったまま、動こうともしなかった。須永はしまいに這入れと云った。敬太郎はわざと這入っていいかと念を入れて聞き返した。須永はほとんどその意味を覚《さと》らない人のごとく、軽く首肯《うなず》いたぎり障子の内に引き込んでしまった。
 階段《はしごだん》を上《あが》る時、敬太郎は奥の部屋で微《かす》かに衣摺《きぬずれ》の音がするような気がした。二階には今まで須永の羽織っていたらしい黒八丈《くろはちじょう》の襟《えり》の掛ったどてらが脱ぎ捨ててあるだけで、ほかに平生と変ったところはどこにも認められなかった。敬太郎の性質から云っても、彼の須永に対する交情から云っても、これほど気にかかる女の事を、率直に切り出して聞けないはずはなかったのだが、今までにどこか罪な想像を逞《たく》ましくしたという疚《や》ましさもあり、また面《めん》と向ってすぐとは云い悪《にく》い皮肉な覘《ねらい》を付けた自覚もあるので、今しがた君の家《うち》へ這入った女は全体何者だと無邪気に尋ねる勇気も出なかった。かえって自分の先へ先へと走りたがる心を圧《お》し隠すような風に、
「空想はもう当分やめだ。それよりか口の方が大事だからね」と云って、兼《かね》て須永から聞いている内幸町《うちさいわいちょう》の叔父さんという人に、一応そういう方の用向で会っておきたいから紹介してくれと真面目《まじめ》に頼んだ。叔父というのは須永の母の妹の連合《つれあい》で、官吏から実業界へ這入って、今では四つか五つの会社に関係を有《も》っている相当な位地の人であったが、須永はその叔父の力を藉《か》りてどうしようという料簡《りょうけん》もないと見えて、「叔父がいろいろ云ってくれるけれども、僕は余《あんまり》進まないか
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