らそうと切り出されるまで覚《さと》らずに、どうも変だとばかり考えていた。
「実は少し御願があって上ったんですが」と云った主人はやや小声になって、「森本さんのいらっしゃる所をどうか教えて頂く訳に参りますまいか、けっしてあなたに御迷惑のかかるような事は致しませんから」と藪《やぶ》から棒につけ加えた。
 敬太郎はこの意外の質問を受けて、しばらくは何という挨拶《あいさつ》も口へ出なかったが、ようやく、「いったいどう云う訳なんです」と主人の顔を覗《のぞ》き込んだ。そうして彼の意味を読もうとしたが、主人は煙管が詰ったと見えて、敬太郎の火箸《ひばし》で雁首《がんくび》を掘っていた。それが済んでから羅宇《らう》の疎通をぷっぷっ試した上、そろそろと説明に取りかかった。
 主人の云うところによると、森本は下宿代が此家《ここ》に六カ月ばかり滞《とどこお》っているのだそうである。が、三年越しいる客ではあるし、遊んでいる人じゃなし、此年《ことし》の末にはどうかするからという当人の言訳を信用して、別段催促もしなかったところへ、今度の旅行になった。家《うち》のものは固《もと》より出張とばかり信じていたが、その日限《にちげん》が過ぎていくら待っても帰らないのみか、どこからも何の音信《たより》も来ないので、しまいにとうとう不審を起した。それで一方に本人の室《へや》を調べると共に、一方に新橋へ行って出張先を聞き合せた。ところが室の方は荷物もそのままで、彼のおった時分と何の変りもなかったが、新橋の答はまた案外であった。出張したとばかり思っていた森本は、先月限り罷《や》められていたそうである。
「それであなたは平生森本さんと御懇意の間柄でいらっしゃるんだから、あなたに伺ったら多分どこに御出《おいで》か分るだろうと思って上ったような訳で。けっしてあなたに森本さんの分をどうのこうのと申し上げるつもりではないのですから、どうか居所だけ知らして頂けますまいか」
 敬太郎はこの失踪者《しっそうしゃ》の友人として、彼の香《かん》ばしからぬ行為に立ち入った関係でもあるかのごとく主人から取扱われるのをはなはだ迷惑に思った。なるほど事実をいえば、ついこの間まである意味の嘆賞《たんしょう》を懐《ふところ》にして森本に近づいていたには違ないが、こんな実際問題にまで秘密の打ち合せがあるように見做《みな》されては、未来を有《も》つ青年として大いなる不面目だと感じた。

        十一

 正直な彼は主人の疳違《かんちがい》を腹の中で怒《おこ》った。けれども怒る前にまず冷たい青大将《あおだいしょう》でも握らせられたような不気味さを覚えた。この妙に落ちつき払って古風な煙草入《たばこいれ》から刻《きざ》みを撮《つま》み出しては雁首《がんくび》へ詰める男の誤解は、正解と同じような不安を敬太郎《けいたろう》に与えたのである。彼は談判に伴なう一種の芸術のごとく巧みに煙管《きせる》を扱かう人であった。敬太郎は彼の様子をしばらく眺《なが》めていた。そうしてただ知らないというよりほかに、向うの疑惑を晴らす方法がないのを残念に思った。はたして主人は容易に煙草入を腰へ納めなかった。煙管を筒へ入れて見たり出して見たりした。そのたびに例の通りぽんぽんという音がした。敬太郎はしまいにどうしてもこの音を退治《たいじ》てやりたいような気がし出した。
「僕はね、御承知の通り学校を出たばかりでまだ一定の職業もなにもない貧書生だが、これでも少しは教育を受けた事のある男だ。森本のような浮浪の徒《と》といっしょに見られちゃ、少し体面にかかわる。いわんや後暗《うしろぐら》い関係でもあるように邪推して、いくら知らないと云っても執濃《しつこ》く疑っているのは怪《け》しからんじゃないか。君がそういう態度で、二年もいる客に対する気ならそれで好い。こっちにも料簡《りょうけん》がある。僕は過去二年の間君のうちに厄介になっているが、一カ月でも宿料《しゅくりょう》を滞《とどこ》おらした事があるかい」
 主人は無論敬太郎の人格に対して失礼に当るような疑を毛頭|抱《いだ》いていないつもりであるという事を繰り返して述べた。そうして万一森本から音信でもあって、彼の居所が分ったらどうぞ忘れずに教えて貰《もら》いたいと頼んだ末、もしさっき聞いた事が敬太郎の気に障《さわ》ったら、いくらでも詫《あや》まるから勘弁してくれと云った。敬太郎は主人の煙草入《たばこいれ》を早く腰に差させようと思って、単に宜《よろ》しいと答えた。主人はようやく談判の道具を角帯《かくおび》の後へしまい込んだ。室《へや》を出る時の彼の様子に、別段敬太郎を疑ぐる気色《けしき》も見えなかったので、敬太郎は怒ってやって好い事をしたと考えた。
 それからしばらく経つと、森本の室に、いつの間にか新らしい客が這入《はい》った。敬太郎は彼の荷物を主人がどう片づけたかについて不審を抱《いだ》いた。けれども主人がかの煙草入を差して談判に来て以来、森本の事はもう聞くまいと決心したので、腹の中はともかく、上部《うわべ》は知らん顔をしていた。そうして依然としてできるようなまたできないような地位を、元ほど焦燥《あせ》らない程度ながらも、まず自分のやるべき第一の義務として、根気に狩《か》り歩《あ》るいていた。
 或る晩もその用で内幸町まで行って留守を食《く》ったのでやむを得ずまた電車で引き返すと、偶然向う側に黄八丈《きはちじょう》の袢天《はんてん》で赤ん坊を負《おぶ》った婦人が乗り合せているのに気がついた。その女は眉毛《まゆげ》の細くて濃い、首筋の美くしくできた、どっちかと云えば粋《いき》な部類に属する型だったが、どうしても袢天|負《おんぶ》をするという柄《がら》ではなかった。と云って、背中の子はたしかに自分の子に違ないと敬太郎は考えた。なおよく見ると前垂《まえだれ》の下から格子縞《こうしじま》か何かの御召《おめし》が出ているので、敬太郎はますます変に思った。外面《そと》は雨なので、五六人の乗客は皆|傘《かさ》をつぼめて杖《つえ》にしていた。女のは黒蛇目《くろじゃのめ》であったが、冷たいものを手に持つのが厭《いや》だと見えて、彼女はそれを自分の側《わき》に立て掛けておいた。その畳んだ蛇《じゃ》の目《め》の先に赤い漆《うるし》で加留多《かるた》と書いてあるのが敬太郎の眼に留った。
 この黒人《くろうと》だか素人《しろうと》だか分らない女と、私生児だか普通の子だか怪しい赤ん坊と、濃い眉《まゆ》を心持八の字に寄せて俯目勝《ふしめがち》な白い顔と、御召《おめし》の着物と、黒蛇の目に鮮《あざや》かな加留多という文字とが互違《たがいちがい》に敬太郎の神経を刺戟《しげき》した時、彼はふと森本といっしょになって子まで生んだという女の事を思い出した。森本自身の口から出た、「こういうと未練があるようでおかしいが、顔質《かおだち》は悪い方じゃありませんでした。眉毛《まみえ》の濃い、時々八の字を寄せて人に物を云う癖のある」といったような言葉をぽつぽつ頭の中で憶《おも》い起しながら、加留多と書いた傘の所有主《もちぬし》を注意した。すると女はやがて電車を下りて雨の中に消えて行った。後に残った敬太郎は一人森本の顔や様子を心に描きつつ、運命が今彼をどこに連れ去ったろうかと考え考え下宿へ帰った。そうして自分の机の上に差出人の名前の書いてない一封の手紙を見出した。

        十二

 好奇心に駆《か》られた敬太郎《けいたろう》は破るようにこの無名氏の書信を披《ひら》いて見た。すると西洋罫紙《せいようけいし》の第一行目に、親愛なる田川君として下に森本よりとあるのが何より先に眼に入った。敬太郎はすぐまた封筒を取り上げた。彼は視線の角度を幾通りにも変えて、そこに消印の文字を読もうと力《つと》めたが、肉が薄いのでどうしても判断がつかなかった。やむを得ず再び本文に立ち帰って、まずそれから片づける事にした。本文にはこうあった。
「突然消えたんで定めて驚ろいたでしょう。あなたは驚ろかないにしても、雷獣《らいじゅう》とそうしてズク(森本は平生下宿の主人夫婦を、雷獣とそうしてズクと呼んでいた。ズクは耳ズクの略である)彼ら両人は驚ろいたに違ない。打ち明けた御話をすると、実は少し下宿代を滞《とどこ》おらしていたので、話をしたら雷獣とそうしてズクが面倒をいうだろうと思って、わざと断らずに、自由行動を取りました。僕の室《へや》に置いてある荷物を始末したら――行李《こり》の中には衣類その他がすっかり這入《はい》っていますから、相当の金になるだろうと思うんです。だから両人にあなたから右を売るなり着るなりしろとおっしゃっていただきたい。もっとも彼雷獣は御承知のごとき曲者《くせもの》故《ゆえ》僕の許諾を待たずして、とっくの昔にそう取計っているかも知れない。のみならず、こっちからそう穏便《おんびん》に出ると、まだ残っている僕の尻を、あなたに拭って貰いたいなどと、とんでもない難題を持ちかけるかも知れませんが、それにはけっして取り合っちゃいけません。あなたのように高等教育を受けて世の中へ出たての人はとかく雷獣|輩《はい》が食物《くいもの》にしたがるものですから、その辺《へん》はよく御注意なさらないといけません。僕だって教育こそないが、借金を踏んじゃ善《よ》くないくらいの事はまさかに心得ています。来年になればきっと返してやるつもりです。僕に意外な経歴が数々あるからと云って、あなたにこの点まで疑われては、せっかくの親友を一人失くしたも同様、はなはだ遺憾《いかん》の至《いたり》だから、どうか雷獣ごときもののために僕を誤解しないように願います」
 森本は次に自分が今大連で電気公園の娯楽がかりを勤めている由《よし》を書いて、来年の春には活動写真買入の用向を帯びて、是非共出京するはずだから、その節は御地で久しぶりに御目にかかるのを今から楽《たのしみ》にして待っているとつけ加えていた。そうしてその後《あと》へ自分が旅行した満洲《まんしゅう》地方の景況をさも面白そうに一口ぐらいずつ吹聴《ふいちょう》していた。中で最も敬太郎を驚ろかしたのは、長春《ちょうしゅん》とかにある博打場《ばくちば》の光景で、これはかつて馬賊の大将をしたというさる日本人の経営に係るものだが、そこへ行って見ると、何百人と集まる汚ない支那人が、折詰のようにぎっしり詰って、血眼《ちまなこ》になりながら、一種の臭気《しゅうき》を吐き合っているのだそうである。しかも長春の富豪が、慰《なぐさ》み半分わざと垢《あか》だらけな着物を着て、こっそりここへ出入《しゅつにゅう》するというんだから、森本だってどんな真似《まね》をしたか分らないと敬太郎は考えた。
 手紙の末段には盆栽《ぼんさい》の事が書いてあった。「あの梅の鉢は動坂《どうざか》の植木屋で買ったので、幹はそれほど古くないが、下宿の窓などに載《の》せておいて朝夕《あさゆう》眺《なが》めるにはちょうど手頃のものです。あれを献上《けんじょう》するからあなたの室《へや》へ持っていらっしゃい。もっとも雷獣《らいじゅう》とそうしてズクは両人共|極《きわ》めて不風流|故《ゆえ》、床の間の上へ据《す》えたなり放っておいて、もう枯らしてしまったかも知れません。それから上り口の土間の傘入《かさいれ》に、僕の洋杖《ステッキ》が差さっているはずです。あれも価格《ねだん》から云えばけっして高く踏めるものではありませんが、僕の愛用したものだから、紀念のため是非あなたに進上したいと思います。いかな雷獣とそうしてズクもあの洋杖をあなたが取ったって、まさか故障は申し立てますまい。だからけっして御遠慮なさらずと好い。取って御使いなさい。――満洲ことに大連ははなはだ好い所です。あなたのような有為の青年が発展すべき所は当分ほかに無いでしょう。思い切って是非いらっしゃいませんか。僕はこっちへ来て以来満鉄の方にもだいぶ知人ができたから、もしあなたが本当に来る気なら、相当の御世話はできるつもりです。ただしその節は前も
前へ 次へ
全47ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング