について、あなたを煩《わず》らわす日は来ないでしょう。なるほどあなたのおっしゃる通り僕は僻んだ解釈ばかりしていたのです。僕はあなたの御話を聞くまでは非常に怖《こわ》かったです。胸の肉が縮《ちぢ》まるほど怖かったです。けれども御話を聞いてすべてが明白になったら、かえって安心して気が楽になりました。もう怖い事も不安な事もありません。その代り何だか急に心細くなりました。淋《さび》しいです。世の中にたった一人立っているような気がします」
「だって御母さんは元の通りの御母さんなんだよ。おれだって今までのおれだよ。誰も御前に対して変るものはありゃしないんだよ。神経を起しちゃいけない」
「神経は起さなくっても淋しいんだから仕方がありません。僕はこれから宅《うち》へ帰って母の顔を見るときっと泣くにきまっています。今からその時の涙を予想しても淋《さむ》しくってたまりません」
「御母さんには黙っている方がよかろう」
「無論話しゃしません。話したら母がどんな苦しい顔をするか分りません」
二人は黙然《もくねん》として相対した。僕は手持無沙汰《てもちぶさた》に煙草盆《たばこぼん》の灰吹《はいふき》を叩いた。市蔵はうつむいて袴《はかま》の膝《ひざ》を見つめていた。やがて彼は淋《さみ》しい顔を上げた。
「もう一つ伺っておきたい事がありますが、聞いて下さいますか」
「おれの知っている事なら何でも話して上げる」
「僕を生んだ母は今どこにいるんです」
彼の実の母は、彼を生むと間もなく死んでしまったのである。それは産後の肥立《ひだち》が悪かったせいだとも云い、または別の病《やまい》だとも聞いているが、これも詳しい話をしてやるほどの材料に欠乏した僕の記憶では、とうてい餓《う》えた彼の眼を静めるに足りなかった。彼の生母《せいぼ》の最後の運命に関する僕の話は、わずか二三分で尽きてしまった。彼は遺憾《いかん》な顔をして彼女の名前を聞いた。幸《さいわい》にして僕は御弓《おゆみ》という古風な名を忘れずにいた。彼は次に死んだ時の彼女の年齢《とし》を問うた。僕はその点に関して、何という確《しか》とした知識を有《も》っていなかった。彼は最後に、彼の宅《うち》に奉公していた時分の彼女に会った事があるかと尋ねた。僕はあると答えた。彼はどんな女だと聞き返した。気の毒にも僕の記憶はすこぶる朦朧《もうろう》としていた。事実僕はその当時十五六の少年に過ぎなかったのである。
「何でも島田に結《い》ってた事がある」
このくらいよりほかに要領を得た返事は一つもできないので、僕もはなはだ残念に思った。市蔵はようやく諦《あき》らめたという眼つきをして、一番しまいに、「じゃせめて寺だけ教えてくれませんか。母がどこへ埋《うま》っているんだか、それだけでも知っておきたいと思いますから」と云った。けれども御弓の菩提所《ぼだいじ》を僕が知ろうはずがなかった。僕は呻吟《しんぎん》しながら、已《やむ》を得なければ姉に聞くよりほかに仕方あるまいと答えた。
「御母さんよりほかに知ってるものは無いでしょうか」
「まああるまいね」
「じゃ分らないでもよござんす」
僕は市蔵に対して気の毒なようなまたすまないような心持がした。彼はしばらく庭の方を向いて、麗《うらら》かな日脚《ひあし》の中に咲く大きな椿《つばき》を眺《なが》めていたが、やがて視線をもとに戻した。
「御母さんが是非千代ちゃんを貰えというのも、やっぱり血統上の考えから、身縁《みより》のものを僕の嫁にしたいという意味なんでしょうね」
「全くそこだ。ほかに何にもないんだ」
市蔵はそれでは貰おうとも云わなかった。僕もそれなら貰うかとも聞かなかった。
七
この会見は僕にとって美くしい経験の一つであった。双方で腹蔵なくすべてを打ち明け合う事ができたという点において、いまだに僕の貧しい過去を飾っている。相手の市蔵から見ても、あるいは生れて始めての慰藉《いしゃ》ではなかったかと思う。とにかく彼が帰ったあとの僕の頭には、善い功徳《くどく》を施こしたという愉快な感じが残ったのである。
「万事おれが引き受けてやるから心配しないがいい」
僕は彼を玄関に送り出しながら、最後にこういう言葉を彼の背に暖かくかけてやった。その代り姉に会見の結果を報告する時ははなはだまずかった。已《やむ》を得ないから、卒業して頭に暇さえできれば、はっきりどうにか片をつけると云っているから、それまで待つが好かろう、今かれこれ突っつくのは試験の邪魔になるだけだからと、姉が聞いても無理のないところで、ひとまず宥《なだ》めておいた。
僕は同時に事情を田口に話して、なるべく市蔵の卒業前に千代子の縁談が運ぶように工夫《くふう》した。委細を聞いた田口の口振は平生の通り如才なくかつ無雑作《むぞうさ》であった。彼は僕の注意がなくっても、その辺は心得ているつもりだと答えた。
「けれども必竟は本人のために嫁入《かたづ》けるんで、(そう申しちゃ角が立つが、)姉さんや市蔵の便宜《べんぎ》のために、千代子の結婚を無理にくり上げたり、くり延べたりする訳にも行かないものだから」
「ごもっともだ」と僕は承認せざるを得なかった。僕は元来田口家と親類並の交際《つきあい》をしているにはいるが、その実彼らの娘の縁談に、進んで口を出したこともなければ、また向うから相談を受けた例《ためし》も有《も》たないのである。それで今日《こんにち》まで千代子にどんな候補者があったのか、間接にさえほとんどその噂《うわさ》を耳にしなかった。ただ前の年鎌倉の避暑地とかで市蔵が会って、気を悪くしたという高木だけは、市蔵からも千代子からも名前を教えられて覚えていた。僕は突然ながら田口にその男はどうなったかと尋ねた。田口は愛嬌《あいきょう》らしく笑って、高木は始めから候補者として打って出たのではないと告げた。けれども相当の身分と教育があって独身の男なら、誰でも候補者になり得る権利は有っているのだから、候補者でないとはけっして断言できないとも告げた。この曖昧《あいまい》な男の事を僕はなお委《くわ》しく聞いて見て、彼が今|上海《シャンハイ》にいる事を確かめた。上海にいるけれどもいつ帰るか分らないという事も確かめた。彼と千代子との間柄はその後何らの発展も見ないが、信書の往復はいまだに絶えない、そうしてその信書はきっと父母《ふぼ》が眼を通した上で本人の手に落つるという条件つきの往復であるという事まで確めた。僕は一も二もなく、千代子には其男《それ》が好いじゃないかと云った。田口はまだどこかに慾があるのか、または別に考《かんがえ》を有っているのか、そうするつもりだとは明言しなかった。高木のいかなる人物かをまるで解しない僕が、それ以上勧める権利もないから、僕はついそのままにして引き取った。
僕と市蔵はその後久しく会わなかった。久しくと云ったところでわずか一カ月半ばかりの時日に過ぎないのだが、僕には卒業試験を眼の前に控えながら、家庭問題に屈托《くったく》しなければならない彼の事が非常に気にかかった。僕はそっと姉を訪《たず》ねてそれとなく彼の近況を探って見た。姉は平気で、何でもだいぶ忙がしそうだよ、卒業するんだからそのはずさねと云って澄ましていた。僕はそれでも不安心だったから、ある日一時間の夕《ゆうべ》を僕と会食するために割《さ》かせて、彼の家の近所の洋食店で共に晩餐《ばんさん》を食いながら、ひそかに彼の様子を窺《うかが》った。彼は平生の通り落ちついていた。なに試験なんかどうにかこうにかやっつけまさあと受合ったところに、満更《まんざら》の虚勢も見えなかった。大丈夫かいと念を押した時、彼は急に情《なさけ》なそうな顔をして、人間の頭は思ったより堅固にできているもんですね、実は僕自身も怖《こわ》くってたまらないんですが、不思議にまだ壊れません、この様子ならまだ当分は使えるでしょうと云った。冗談《じょうだん》らしくもあり、また真面目《まじめ》らしくもあるこの言葉が、妙に憐《あわ》れ深い感じを僕に与えた。
八
若葉の時節が過ぎて、湯上《ゆあが》りの単衣《ひとえ》の胸に、団扇《うちわ》の風を入れたく思うある日、市蔵がまたふらりとやって来た。彼の顔を見るや否《いな》や僕が第一にかけた言葉は、試験はどうだったいという一語であった。彼は昨日《きのう》ようやくすんだと答えた。そうして明日《あす》からちょっと旅行して来るつもりだから暇乞《いとまごい》に来たと告げた。僕は成績もまだ分らないのに、遠く走る彼の心理状態を疑ってまた多少の不安を感じた。彼は京都附近から須磨《すま》明石《あかし》を経て、ことに因《よ》ると、広島|辺《へん》まで行きたいという希望を述べた。僕はその旅行の比較的|大袈裟《おおげさ》なのに驚ろいた。及第とさえきまっていればそれでも好かろうがと間接に不賛成の意を仄《ほの》めかして見ると、彼は試験の結果などには存外冷淡な挨拶《あいさつ》をした。そんな事に気を遣《つか》う叔父さんこそ平生にも似合わしからんじゃありませんかと云って、ほとんど相手にならなかった。話しているうちに、僕は彼の思い立《たち》が及落の成績に関係のない別方面の動機から萌《きざ》しているという事を発見した。
「実はあの事件以来妙に頭を使うので、近頃では落ちついて書斎に坐《すわ》っている事が困難になりましてね。どうしても旅行が必要なんですから、まあ試験を中途で已《や》めなかったのが感心だぐらいに賞《ほ》めて許して下さい」
「そりゃ御前の金で御前の行きたい所へ行くのだから少しも差支《さしつかえ》はないさ。考えて見れば少しは飛び歩いて気を換えるのも好かろう。行って来るがいい」
「ええ」と云って市蔵はやや満足らしい顔をしたが、「実は大きな声で話すのも気の毒でもったいないんですが、叔父さんにあの話を聞いてから以後は、母の顔を見るたんびに、変な心持になってたまらないんです」とつけ足した。
「不愉快になるのか」と僕はむしろ厳《おごそ》かに聞いた。
「いいえ、ただ気の毒なんです。始めは淋《さび》しくって仕方がなかったのが、だんだんだんだん気の毒に変化して来たのです。実はここだけの話ですけれども、近頃では母の顔を朝夕見るのが苦痛なんです。今度《こんだ》の旅行だって、かねてから卒業したら母に京大阪と宮島を見物させてやりたいと思っていたのだから、昔の僕なら供《とも》をする気で留守《るす》を叔父さんにでも頼みに出かけて来るところなんですが、今云ったような訳で、関係がまるで逆になったもんだから、少しでも母の傍《そば》を離れたらという気ばかりして」
「困るね、そう変になっちゃあ」
「僕は離れたらまたきっと母が恋しくなるだろうと思うんですが、どうでしょう。そう旨《うま》くはいかないもんでしょうか」
市蔵はさも懸念《けねん》らしくこういう問をかけた。彼より経験に富んだ年長者をもって自任する僕にも、この点に関する彼の未来はほとんど想像できなかった。僕はただ自分に信念がなくって、わが心の事を他《ひと》に尋ねて安心したいと願う彼の胸の裏《うち》を憐《あわ》れに思った。上部《うわべ》はいかにも優しそうに見えて、実際は極《きわ》めて意地の強くでき上った彼が、こんな弱い音《ね》を出すのは、ほとんど例《ためし》のない事だったからである。僕は僕の力の及ぶ限り彼の心に保証を与えた。
「そんな心配はするだけ損だよ。おれが受合ってやる。大丈夫だから遊んで来るが好《い》い。御前の御母さんはおれの姉だ。しかもおれよりも学問をしないだけに、よほど純良にできている、誰からも敬愛されべき婦人だ。あの姉と君のような情愛のある子がどうして離れっ切りに離れられるものか。大丈夫だから安心するが好い」
市蔵は僕の言葉を聞いて実際安心したらしく見えた。僕もやや安心した。けれども一方では、このくらい根のない慰藉《いしゃ》の言葉が、明晰《めいせき》な頭脳を有《も》った市蔵に、これほどの影響を与えたとすれば、それは彼の神経がどこか調子を失なってい
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