だという畏怖《いふ》の念から解脱《げだつ》する事ができなかった。
 それだから僕はゲダンケの主人公を見て驚ろいたのである。親友の命を虫の息のように軽《かろ》く見る彼は、理と情《じょう》との間に何らの矛盾をも扞格《かんかく》をも認めなかった。彼の有する凡《すべ》ての知力は、ことごとく復讐《ふくしゅう》の燃料となって、残忍な兇行を手際《てぎわ》よく仕遂げる方便に供せられながら、毫《ごう》も悔ゆる事を知らなかった。彼は周密なる思慮を率《ひき》いて、満腔《まんこう》の毒血を相手の頭から浴びせかけ得る偉大なる俳優であった。もしくは尋常以上の頭脳と情熱を兼ねた狂人であった。僕は平生の自分と比較して、こう顧慮なく一心にふるまえるゲダンケの主人公が大いに羨《うらや》ましかった。同時に汗《あせ》の滴《したた》るほど恐ろしかった。できたらさぞ痛快だろうと思った。でかした後《あと》は定めし堪《た》えがたい良心の拷問《ごうもん》に逢うだろうと思った。
 けれどももし僕の高木に対する嫉妬《しっと》がある不可思議の径路を取って、向後《こうご》今の数十倍に烈《はげ》しく身を焼くならどうだろうと僕は考えた。しかし僕はその時の自分を自分で想像する事ができなかった。始めは人間の元来からの作りが違うんだから、とてもこんな真似《まね》はしえまいという見地から、すぐこの問題を棄却《ききゃく》しようとした。次には、僕でも同じ程度の復讐《ふくしゅう》が充分やって除《の》けられるに違いないという気がし出した。最後には、僕のように平生は頭と胸の争いに悩んでぐずついているものにして始めてこんな猛烈な兇行を、冷静に打算的に、かつ組織的に、逞《たく》ましゅうするのだと思い出した。僕は最後になぜこう思ったのか自分にも分らない。ただこう思った時急に変な心持に襲われた。その心持は純然たる恐怖でも不安でも不快でもなく、それらよりは遥《はる》かに複雑なものに見えた。が、纏《まとま》って心に現われた状態から云えば、ちょうどおとなしい人が酒のために大胆になって、これなら何でもやれるという満足を感じつつ、同時に酔に打ち勝たれた自分は、品性の上において平生の自分より遥に堕落したのだと気がついて、そうして堕落は酒の影響だからどこへどう避けても人間としてとても逃《のが》れる事はできないのだと沈痛に諦《あき》らめをつけたと同じような変な心持であった。僕はこの変な心持と共に、千代子の見ている前で、高木の脳天に重い文鎮《ぶんちん》を骨の底まで打ち込んだ夢を、大きな眼を開《あ》きながら見て、驚ろいて立ち上った。
 下へ降りるや否《いな》や、いきなり風呂場《ふろば》へ行って、水をざあざあ頭へかけた。茶の間の時計を見ると、もう午過《ひるすぎ》なので、それを好い機会《しお》に、そこへ坐《す》わって飯を片づける事にした。給仕には例の通り作《さく》が出た。僕は二《ふ》た口《くち》三口《みくち》無言で飯の塊《かたま》りを頬張ったが、突然彼女に、おい作僕の顔色はどうかあるかいと聞いた。作は吃驚《びっくり》した眼を大きくして、いいえと答えた。それで問答が切れると、今度は作の方がどうか遊ばしましたかと尋ねた
「いいや、大してどうもしない」
「急に御暑うございますから」
 僕は黙って二杯の飯を食い終った。茶を注《つ》がして飲みかけた時、僕はまた突然作に、鎌倉などへ行って混雑《ごたごた》するより宅《うち》にいる方が静《しずか》で好いねと云った。作は、でもあちらの方が御涼しゅうございましょうと云った。僕はいやかえって東京より暑いくらいだ、あんな所にいると気ばかりいらいらしていけないと説明してやった。作は御隠居さまはまだ当分あちらにおいででございますかと尋ねた。僕はもう帰るだろうと答えた。

        二十九

 僕は僕の前に坐《すわ》っている作《さく》の姿を見て、一筆《ひとふで》がきの朝貌《あさがお》のような気がした。ただ貴《たっ》とい名家の手にならないのが遺憾《いかん》であるが、心の中はそう云う種類の画《え》と同じく簡略にでき上っているとしか僕には受取れなかった。作の人柄《ひとがら》を画に喩《たと》えて何のためになると聞かれるかも知れない。深い意味もなかろうが、実は彼女の給仕を受けて飯を食う間に、今しがたゲダンケを読んだ自分と、今黒塗の盆を持って畏《かしこ》まっている彼女とを比較して、自分の腹はなぜこうしつこい油絵のように複雑なのだろうと呆《あき》れたからである。白状すると僕は高等教育を受けた証拠《しょうこ》として、今日《こんにち》まで自分の頭が他《ひと》より複雑に働らくのを自慢にしていた。ところがいつかその働らきに疲れていた。何の因果《いんが》でこうまで事を細かに刻まなければ生きて行かれないのかと考えて情なかった。僕は茶碗《ちゃわん》を膳《ぜん》の上に置きながら、作の顔を見て尊《たっ》とい感じを起した。
「作御前でもいろいろ物を考える事があるかね」
「私なんぞ別に何も考えるほどの事がございませんから」
「考えないかね。それが好いね。考える事がないのが一番だ」
「あっても智慧《ちえ》がございませんから、筋道が立ちません。全く駄目でございます」
「仕合せだ」
 僕は思わずこう云って作を驚ろかした。作は突然僕から冷かされたとでも思ったろう。気の毒な事をした。
 その夕暮に思いがけない母が出し抜けに鎌倉から帰って来た。僕はその時|日《ひ》の限りかけた二階の縁に籐椅子《といす》を持ち出して、作が跣足《はだし》で庭先へ水を打つ音を聞いていた。下へ降《お》りて玄関へ出た時、僕は母を送って来るべきはずの吾一の代りに、千代子が彼女の後《あと》に跟《つ》いて沓脱《くつぬぎ》から上《あが》ったのを見て非常に驚ろいた。僕は籐椅子の上で千代子の事を全く考えずにいたのである。考えても彼女と高木とを離す事はできなかったのである。そうして二人は当分鎌倉の舞台を動き得ないものと信じていたのである。僕は日に焼けて心持色の黒くなったと思われる母と顔を見合わして挨拶《あいさつ》を取り替《かわ》す前に、まず千代子に向ってどうして来たのだと聞きたかった。実際僕はその通りの言葉を第一に用いたのである。
「叔母さんを送って来たのよ。なぜ。驚ろいて」
「そりゃありがとう」と僕は答えた。僕の千代子に対する感情は鎌倉へ行く前と、行ってからとでだいぶ違っていた。行ってからと帰って来てからとでもまただいぶ違っていた。高木といっしょに束《つか》ねられた彼女に対するのと、こう一人に切り離された彼女に対するのとでもまただいぶ違っていた。彼女は年を取った母を吾一に托するのが不安心だったから、自分で随《つ》いて来たのだと云って、作が足を洗っている間《ま》に、母の単衣《ひとえ》を箪笥《たんす》から出したり、それを旅行着と着換えさせたりなどして、元の千代子の通り豆《まめ》やかにふるまった。僕は母にあれから何か面白い事がありましたかと尋ねた。母は満足らしい顔をしながら、別にこれという珍らしい事も無かったと答えたが、「でもね久しぶりに好《い》い気保養《きほよう》をしました。御蔭で」と云った。僕にはそれが傍《そば》にいる千代子に対しての礼の言葉と聞こえた。僕は千代子に今日これからまた鎌倉へ帰るのかと尋ねた。
「泊って行くわ」
「どこへ」
「そうね。内幸町へ行っても好いけど、あんまり広過ぎて淋《さむ》しいから。――久しぶりにここへ泊ろうかしら、ねえ叔母さん」
 僕には千代子が始めから僕の家に寝るつもりで出て来たように見えた。自白すれば僕はそこへ坐って十分と経たないうちに、また眼の前にいる彼女の言語動作を一種の立場から観察したり、評価したり、解釈したりしなければならないようになったのである。僕はそこに気がついた時、非常な不愉快を感じた。またそういう努力には自分の神経が疲れ切っている事も感じた。僕は自分が自分に逆《さか》らって余儀なくこう心を働かすのか。あるいは千代子が厭《いや》がる僕を無理に強いて動くようにするのか。どっちにしても僕は腹立たしかった。
「千代ちゃんが来ないでも吾一さんでたくさんだのに」
「だってあたし責任があるじゃありませんか。叔母さんを招待したのはあたしでしょう」

        三十

「じゃ僕も招待を受けたんだから、送って来て貰《もら》えば好かった」
「だから他《ひと》の云う事を聞いて、もっといらっしゃれば好《い》いのに」
「いいえあの時にさ。僕の帰った時にさ」
「そうするとまるで看護婦みたようね。好いわ看護婦でも、ついて来て上げるわ。なぜそう云わなかったの」
「云っても断られそうだったから」
「あたしこそ断られそうだったわ、ねえ叔母さん。たまに招待に応じて来ておきながら、厭《いや》にむずかしい顔ばかりしているんですもの。本当にあなたは少し病気よ」
「だから千代子について来て貰いたかったのだろう」と母が笑いながら云った。
 僕は母の帰るつい一時間前まで千代子の来る事を予想し得なかった。それは今改めてくり返す必要もないが、それと共に僕は母が高木について齎《もた》らす報道をほとんど確実な未来として予期していた。穏《おだ》やかな母の顔が不安と失望で曇る時の気の毒さも予想していた。僕は今この予期と全く反対の結果を眼の前に見た。彼らは二人とも常に変らない親しげな叔母|姪《めい》であった。彼らの各自《おのおの》は各自に特有な温《あたた》か味《み》と清々《すがすが》しさを、いつもの通り互いの上に、また僕の上に、心持よく加えた。
 その晩は散歩に出る時間を倹約して、女二人と共に二階に上《あが》って涼みながら話をした。僕は母の命ずるまま軒端《のきば》に七草《ななくさ》を描《か》いた岐阜提灯《ぎふぢょうちん》をかけて、その中に細い蝋燭《ろうそく》を点《つ》けた。熱いから電灯を消そうと発議《ほつぎ》した千代子は、遠慮なく畳の上を暗くした。風のない月が高く上《のぼ》った。柱に凭《もた》れていた母が鎌倉を思い出すと云った。電車の音のする所で月を看《み》るのは何だかおかしい気がすると、この間から海辺に馴染《なず》んだ千代子が評した。僕は先刻《さっき》の籐椅子《といす》の上に腰をおろして団扇《うちわ》を使っていた。作《さく》が下から二度ばかり上って来た。一度は煙草盆《たばこぼん》の火を入れ更《か》えて、僕の足の下に置いて行った。二返目には近所から取り寄せた氷菓子《アイスクリーム》を盆に載《の》せて持って来た。僕はそのたびごと階級制度の厳重な封建の代《よ》に生れたように、卑しい召使の位置を生涯《しょうがい》の分と心得ているこの作と、どんな人の前へ出ても貴女《レデー》としてふるまって通るべき気位を具《そな》えた千代子とを比較しない訳に行かなかった。千代子は作が出て来ても、作でないほかの女が出て来たと同じように、なんにも気に留めなかった。作の方ではいったん起《た》って梯子段《はしごだん》の傍《そば》まで行って、もう降りようとする間際《まぎわ》にきっと振り返って、千代子の後姿《うしろすがた》を見た。僕は自分が鎌倉で高木を傍《そば》に見て暮した二日間を思い出して、材料がないから何も考えないと明言した作に、千代子というハイカラな有毒の材料が与えられたのを憐《あわ》れに眺《なが》めた。
「高木はどうしたろう」という問が僕の口元までしばしば出た。けれども単なる消息の興味以外に、何かためにする不純なものが自分を前に押し出すので、その都度《つど》卑怯だと遠くで罵《ののし》られるためか、つい聞くのをいさぎよしとしなくなった。それに千代子が帰って母だけになりさえすれば、彼の話は遠慮なくできるのだからとも考えた。しかし実を云うと、僕は千代子の口から直下《じか》に高木の事を聞きたかったのである。そうして彼女が彼をどう思っているか、それを判切《はっきり》胸に畳み込んでおきたかったのである。これは嫉妬《しっと》の作用なのだろうか。もしこの話を聞くものが、嫉妬だというなら、僕には少しも異存がない。今の料簡《りょうけん》で考えて
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