て歩調を合せた。そのうちに、男の足だものだから、いつの間にか姉妹《きょうだい》を乗り越した。僕は一度振り返って見たが、二人は後《おく》れた事にいっこう頓着《とんじゃく》しない様子で、毫《ごう》も追いつこうとする努力を示さなかった。僕にはそれがわざと後《あと》から来る高木を待ち合せるためのようにしか取れなかった。それは誘った人に対する礼儀として、彼らの取るべき当然の所作《しょさ》だったのだろう。しかしその時の僕にはそう思えなかった。そう思う余地があっても、そうは感ぜられなかった。早く来いという合図をしようという考で振り向いた僕は、合図を止《や》めてまた叔父と歩き出した。そうしてそのまま小坪《こつぼ》へ這入《はい》る入口の岬《みさき》の所まで来た。そこは海へ出張《でば》った山の裾《すそ》を、人の通れるだけの狭い幅《はば》に削《けず》って、ぐるりと向う側へ廻り込まれるようにした坂道であった。叔父は一番高い坂の角まで来てとまった。
二十一
彼は突然彼の体格に相応した大きな声を出して姉妹を呼んだ。自白するが、僕はそれまでに何度も後《うしろ》を振り返って見ようとしたのである。けれども気が咎《とが》めると云うのか、自尊心が許さないと云うのか、振り向こうとするごとに、首が猪《いのしし》のように堅くなって後へ回らなかったのである。
見ると二人の姿はまだ一町ほど下にあった。そうしてそのすぐ後に高木と吾一が続いていた。叔父が遠慮のない大きな声を出して、おおいと呼んだ時、姉妹は同時に僕らを見上げたが、千代子はすぐ後にいる高木の方を向いた。すると高木は被《かぶ》っていた麦藁帽《むぎわらぼう》を右の手に取って、僕らを目当にしきりに振って見せた。けれども四人のうちで声を出して叔父に応じたのはただ吾一だけであった。彼はまた学校で号令の稽古《けいこ》でもしたものと見えて、海と崖《がけ》に反響するような答と共に両手を一度に頭の上に差し上げた。
叔父と僕は崖の鼻に立って彼らの近寄るのを待った。彼らは叔父に呼ばれた後《のち》も呼ばれない前と同じ遅い歩調で、何か話しながら上《あが》って来た。僕にはそれが尋常でなくって、大いにふざけているように見えた。高木は茶色のだぶだぶした外套《がいとう》のようなものを着て時々|隠袋《ポッケット》へ手を入れた。この暑いのにまさか外套は着られまいと思って、最初は不思議に眺《なが》めていたが、だんだん近くなるに従がって、それが薄い雨除《レインコート》である事に気がついた。その時叔父が突然、市《いっ》さんヨットに乗ってそこいらを遊んで歩くのも面白いだろうねと云ったので、僕は急に気がついたように高木から眼を転じて脚《あし》の下を見た。すると磯《いそ》に近い所に、真白に塗った空船《からぶね》が一|艘《そう》、静かな波の上に浮いていた。糠雨《ぬかあめ》[#「糠雨」は底本では「糖雨」]とまでも行かない細かいものがなお降りやまないので、海は一面に暈《ぼか》されて、平生《いつも》なら手に取るように見える向う側の絶壁の樹も岩も、ほとんど一色《ひといろ》に眺《なが》められた。そのうち四人《よつたり》はようやく僕らの傍《そば》まで来た。
「どうも御待たせ申しまして、実は髭《ひげ》を剃《す》っていたものだから、途中でやめる訳にも行かず……」と高木は叔父の顔を見るや否や云訳《いいわけ》をした。
「えらい物を着込んで暑かありませんか」と叔父が聞いた。
「暑くったって脱ぐ訳に行かないのよ。上はハイカラでも下は蛮殻《ばんから》なんだから」と千代子が笑った。高木は雨外套《レインコート》の下に、直《じか》に半袖《はんそで》の薄い襯衣《シャツ》を着て、変な半洋袴《はんズボン》から余った脛《すね》を丸出しにして、黒足袋《くろたび》に俎下駄《まないたげた》を引っかけていた。彼はこの通りと雨外套の下を僕らに示した上、日本へ帰ると服装が自由で貴女《レデー》の前でも気兼《きがね》がなくって好いと云っていた。
一同がぞろぞろ揃《そろ》って道幅の六尺ばかりな汚苦《むさくる》しい漁村に這入《はい》ると、一種不快な臭《におい》がみんなの鼻を撲《う》った。高木は隠袋《ポッケット》から白い手巾《ハンケチ》を出して短かい髭の上を掩《おお》った。叔父は突然そこに立って僕らを見ていた子供に、西の者で南の方から養子に来たものの宅《うち》はどこだと奇体な質問を掛けた。子供は知らないと云った。僕は千代子に何でそんな妙な聞き方をするのかと尋ねた。昨夕《ゆうべ》聞き合せに人をやった家《うち》の主人が云うには、名前は忘れたからこれこれの男と云って探して歩けば分ると教えたからだと千代子が話して聞かした時、僕はこの呑気《のんき》な教え方と、同じく呑気な聞き方を、いかにも余裕なくこせついている自分と比べて見て、妙に羨《うらや》ましく思った。
「それで分るんでしょうか」と高木が不思議な顔をした。
「分ったらよっぽど奇体だわね」と千代子が笑った。
「何大丈夫分るよ」と叔父が受合った。
吾一は面白半分人の顔さえ見れば、西のもので南の方から養子に来たものの宅はどこだと聞いては、そのたびにみんなを笑わした。一番しまいに、編笠《あみがさ》を被《かぶ》って白い手甲《てっこう》と脚袢《きゃはん》を着けた月琴弾《げっきんひき》の若い女の休んでいる汚ない茶店の婆さんに同じ問《とい》をかけたら、婆さんは案外にもすぐそこだと容易《たやす》く教えてくれたので、みんながまた手を拍《う》って笑った。それは往来から山手の方へ三級ばかりに仕切られた石段を登り切った小高い所にある小さい藁葺《わらぶき》の家であった。
二十二
この細い石段を思い思いの服装《なり》をした六人が前後してぞろぞろ登る姿は、傍《はた》で見ていたら定めし変なものだったろうと思う。その上六人のうちで、これから何をするか明瞭《はっきり》した考を有《も》っていたものは誰もないのだからはなはだ気楽である。肝心《かんじん》の叔父さえただ船に乗る事を知っているだけで、後は網だか釣だか、またどこまで漕《こ》いで出るのかいっこう弁別《わきま》えないらしかった。百代子の後《あと》から足の力で擦《す》り減《へ》らされて凹みの多くなった石段を踏んで行く僕はこんな無意味な行動に、己《おの》れを委《ゆだ》ねて悔いないところを、避暑の趣《おもむき》とでも云うのかと思いつつ上《のぼ》った。同時にこの無意味な行動のうちに、意味ある劇の大切な一幕が、ある男とある女の間に暗《あん》に演ぜられつつあるのでは無かろうかと疑ぐった。そうしてその一幕の中で、自分の務《つと》めなければならない役割がもしあるとすれば、穏《おだや》かな顔をした運命に、軽く翻弄《ほんろう》される役割よりほかにあるまいと考えた。最後に何事も打算しないでただ無雑作《むぞうさ》にやって除《の》ける叔父が、人に気のつかないうちに、この幕を完成するとしたら、彼こそ比類のない巧妙な手際《てぎわ》を有《も》った作者と云わなければなるまいという気を起した。僕の頭にこういう影が射した時、すぐ後《あと》から跟《つ》いて上《あが》って来る高木が、これじゃ暑くってたまらない、御免蒙《ごめんこうむ》って雨防衣《レインコート》を脱ごうと云い出した。
家は下から見たよりもなお小さくて汚なかった。戸口に杓子《しゃくし》が一つ打ちつけてあって、それに百日風邪《ひゃくにちかぜ》吉野平吉一家一同と書いてあるので、主人の名がようやく分った。それを見つけ出して、みんなに聞こえるように読んだのは、目敬《めざと》い吾一の手柄であった。中を覗《のぞ》くと天井も壁もことごとく黒く光っていた。人間としては婆さんが一人いたぎりである。その婆さんが、今日は天気がよくないので、おおかたおいでじゃあるまいと云って早く海へ出ましたから、今浜へ下りて呼んできましょうと断わりを述べた。舟へ乗って出たのかねと叔父が聞くと、婆さんは多分あの船だろうと答えて、手で海の上を指《さ》した。靄《もや》はまだ晴れなかったけれども、先刻《さっき》よりは空がだいぶ明るくなったので、沖の方は比較的|判切《はっきり》見える中に、指された船は遠くの向うに小さく横《よこた》わっていた。
「あれじゃ大変だ」
高木は携《たずさ》えて来た双眼鏡を覗《のぞ》きながらこう云った。
「随分|呑気《のんき》ね、迎《むか》いに行くって、どうしてあんな所へ迎に行けるんでしょう」と千代子は笑いながら、高木の手から双眼鏡を受取った。
婆さんは何|直《じき》ですと答えて、草履《ぞうり》を穿《は》いたまま、石段を馳《か》け下りて行った。叔父は田舎者《いなかもの》は気楽だなと笑っていた。吾一は婆さんの後《あと》を追かけた。百代子はぼんやりして汚ない縁へ腰をおろした。僕は庭を見廻した。庭という名のもったいなく聞こえる縁先は五坪《いつつぼ》にも足りなかった。隅《すみ》に無花果《いちじく》が一本あって、腥《なま》ぐさい空気の中に、青い葉を少しばかり茂らしていた。枝にはまだ熟しない実《み》が云訳《いいわけ》ほど結《な》って、その一本の股《また》の所に、空《から》の虫籠《むしかご》がかかっていた。その下には瘠《や》せた鶏が二三羽むやみに爪を立てた地面の中を餓《う》えた嘴《くちばし》でつついていた。僕はその傍《そば》に伏せてある鉄網《かなあみ》の鳥籠《とりかご》らしいものを眺《なが》めて、その恰好《かっこう》がちょうど仏手柑《ぶしゅかん》のごとく不規則に歪《ゆが》んでいるのに一種|滑稽《こっけい》な思いをした。すると叔父が突然、何分|臭《くさ》いねと云い出した。百代子は、あたしもう御魚なんかどうでも好いから、早く帰りたくなったわと心細そうな声を出した。この時まで双眼鏡で海の方を見ながら、断《た》えず千代子と話していた高木はすぐ後《うしろ》を振り返った。
「何をしているだろう。ちょっと行って様子を見て来ましょう」
彼はそう云いながら、手に持った雨外套《レインコート》と双眼鏡を置くために後《うしろ》の縁を顧《かえり》みた。傍《そば》に立った千代子は高木の動かない前に手を出した。
「こっちへ御出しなさい。持ってるから」
そうして高木から二つの品を受け取った時、彼女は改めてまた彼の半袖姿《はんそですがた》を見て笑いながら、「とうとう蛮殻《ばんから》になったのね」と評した。高木はただ苦笑しただけで、すぐ浜の方へ下りて行った。僕はさも運動家らしく発達した彼の肩の肉が、急いで石段を下りるために手を振るごとに動く様を後から無言のまま注意して眺《なが》めた。
二十三
船に乗るためにみんなが揃《そろ》って浜に下り立ったのはそれから約一時間の後《のち》であった。浜には何の祭の前か過《すぎ》か、深く砂の中に埋《う》められた高い幟《のぼり》の棒が二本僕の眼を惹《ひ》いた。吾一はどこからか磯《いそ》へ打ち上げた枯枝を拾って来て、広い砂の上に大きな字と大きな顔をいくつも並べた。
「さあ御乗り」と坊主頭の船頭が云ったので、六人は順序なくごたごたに船縁《ふなべり》から這《は》い上った。偶然の結果千代子と僕は後《あと》のものに押されて、仕切りの付いた舳《へさき》の方に二人|膝《ひざ》を突き合せて坐った。叔父は一番先に、胴《どう》の間《ま》というのか、真中の広い所に、家長《かちょう》らしく胡坐《あぐら》をかいてしまった。そうして高木をその日の客として取り扱うつもりか、さあどうぞと案内したので、彼は否応《いやおう》なしに叔父の傍《そば》に座を占めた。百代子と吾一は彼らの次の間《ま》と云ったような仕切の中に船頭といっしょに這入った。
「どうですこっちが空《す》いてますからいらっしゃいませんか」と高木はすぐ後《うしろ》の百代子を顧《かえり》みた。百代子はありがとうといったきり席を移さなかった。僕は始めから千代子と一つ薄縁《うすべり》の上に坐るのを快く思わなかった。僕の高木に対して嫉妬《しっと》を起した事はすでに明かに自白し
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