ながら席を立った。形式を具《そな》えない断りを云われたと解釈した僕はしばらくしてまた席を立った。
この事件後僕は同じ問題に関して母の満足を買うための努力をますます屑《いさぎ》よしとしなくなった。自尊心の強い父の子として、僕の神経はこういう点において自分でも驚ろくくらい過敏なのである。もちろん僕はその折の叔母に対してけっして感情を害しはしなかった。こっちからまだ正式の申し込みを受けていない叔母としては、ああよりほかに意向の洩《も》らし方も無かったのだろうと思う。千代子に至っては何を云おうが笑おうが、いつでも蟠《わだか》まりのない彼女の胸の中を、そのまま外に表わしたに過ぎないと考えていた。僕はその時の千代子の言葉や様子から察して、彼女が僕のところへ来たがっていない事だけは、従前通りたしかに認めたが、同時に、もし差し向いで僕の母にしんみり話し込まれでもしたら、ええそういう訳《わけ》なら御嫁に来て上げましょうと、その場ですぐ承知しないとも限るまいと思って、私《ひそ》かに掛念《けねん》を抱《いだ》いたくらいである。彼女はそう云う時に、平気で自分の利害や親の意思を犠牲に供し得る極《きわ》めて純粋の女だと僕は常から信じていたからである。
八
意地の強い僕は母を嬉《うれ》しがらせるよりもなるべく自我を傷《きずつ》けないようにと祈った。その結果千代子が僕の知らない間に、母から説き落されてはと掛念して、暗にそれを防ぐ分別をした。母は彼女の生れ落ちた当初すでに僕の嫁ときめただけあって、多くある姪《めい》や甥《おい》の中で、取り分け千代子を可愛《かわい》がった。千代子も子供の時分から僕の家を生家のごとく心得て遠慮なく寝泊《ねとま》りに来た。その縁故で、田口と僕の家が昔に比べると比較的|疎《うと》くなった今日《こんにち》でも、千代子だけは叔母さん叔母さんと云って、生《うみ》の親にでも逢いに来るような朗らかな顔をして、しげしげ出入《でいり》をしていた。単純な彼女は、自分の身を的《まと》に時々起る縁談をさえ、隠すところなく母に打ち明けた。人の好い母はまたそれを素直に聞いてやるだけで、恨《うら》めしい眼つき一つも見せ得なかった。僕の恐れる懇談は、こういう関係の深い二人の間に、いつ起らないとも限らなかったのである。
僕の分別というのはまずこの点に関して、当分母の口を塞《ふさ》いでおこうとする用心に過ぎなかった。ところがいざ改たまって母にそれを切り出そうとすると、ただ自分の我《が》を通すために、弱い親の自由を奪うのは残酷な子に違ないという心持が、どこにか萌《きざ》すので、ついそれなりにしてやめる事が多かった。もっとも年寄の眉《まゆ》を曇らすのがただ情《なさけ》ないばかりでやめたとも云われない。これほど親しい間柄でさえ今まで思い切ったところを千代子に打ち明け得なかった母の事だから、たといこのままにしておいても、まあ当分は大丈夫だろうという考が、母に対する僕を多少|抑《おさ》えたのである。
それで僕は千代子に関して何という明瞭《めいりょう》な所置も取らずに過ぎた。もっともこういう不安な状態で日を送った時期にも、まるで田口の家と打絶えた訳ではなかったので、会《たま》には単に母の喜こぶ顔を見るだけの目的をもって内幸町まで電車を利用した覚さえあったのである。そういうある日の晩、僕は久しぶりに千代子から、習い立ての珍らしい手料理を御馳走《ごちそう》するからと引止められて、夕飯の膳《ぜん》についた。いつも留守《るす》がちな叔父がその日はちょうど内にいて、食事中例の気作《きさく》な話をし続けにしたため、若い人の陽気な笑い声が障子《しょうじ》に響くくらい家の中が賑《にぎ》わった。飯が済んだ後《あと》で、叔父はどういう考か、突然僕に「市《いっ》さん久しぶりに一局やろうか」と云い出した。僕はさほど気が進まなかったけれどもせっかくだから、やりましょうと答えて、叔父と共に別室へ退《しりぞ》いた。二人はそこで二三番打った。固《もと》より下手と下手の勝負なので、時間のかかるはずもなく、碁石《ごいし》を片づけてもまだそれほど遅くはならなかった。二人は煙草《たばこ》を呑《の》みながらまた話を始めた。その時僕は適当な機会を利用してわざと叔父に「千代子さんの縁談はまだ纏《まと》まりませんか」と聞いた。それは固より僕が千代子に対して他意のないという事を示すためであった。がまた一方では、一日も早くこの問題の解決が着けば、自分も安心だし、千代子も幸福だと考えたからである。すると叔父はさすがに男だけあって、何の躊躇《ちゅうちょ》もなくこう云った。――
「いやまだなかなかそう行きそうもない。だんだんそんな話を持って来てくれるものはあるが、何しろむずかしくって弱る。その上調べれば調べるほど面倒になるだけだし、まあ大抵のところで纏まるなら纏めてしまおうかと思ってる。――縁談なんてものは妙なものでね。今だから御前に話すが、実は千代子の生れたとき、御前の御母さんが、これを市蔵の嫁に欲しいってね――生れ立ての赤ん坊をだよ」
叔父はこの時笑いながら僕の顔を見た。
「母は本気でそう云ったんだそうです」
「本気さ。姉さんはまた正直な人だからね。実に好い人だ。今でも時々|真面目《まじめ》になって叔母さんにその話をするそうだ」
叔父は再び大きな声を出して笑った。僕ははたして叔父がこう軽くこの事件を解釈しているなら、母のために少し弁じてやろうかと考えた。が、もしこれが世慣《よな》れた人の巧妙な覚《さと》らせぶりだとすれば、一口でも云うだけが愚《おろか》だと思い直して黙った。叔父は親切な人でまた世慣《よな》れた人である。彼のこの時の言葉はどちらの眼で見ていいのか、僕には今もって解らない。ただ僕がその時以来千代子を貰わない方へいよいよ傾いたのは事実である。
九
それから二カ月ばかりの間僕は田口の家へ近寄らなかった。母さえ心配しなければ、それぎり内幸町へは足を向けずにすましたかも知れなかった。たとい母が心配するにしても、単に彼女に対する掛念《けねん》だけが問題なら、あるいは僕の気随《きずい》をいざという極点まで押し通したかも知れなかった。僕はそんな[#「そんな」は底本では「そんに」]風に生みつけられた男なのである。ところが二カ月の末になって、僕は突然自分の片意地を翻《ひる》がえさなければ不利だという事に気がついた。実を云うと、僕と田口と疎遠になればなるほど、母はあらゆる機会を求めて、ますます千代子と接触するように力《つと》め出したのである。そうしていつなんどき僕の最も恐れる直接の談判を、千代子に向って開かないとも限らないように、漸々《ぜんぜん》形勢を切迫させて来たのである。僕は思い切って、この危機を一帳場《ひとちょうば》先へ繰り越そうとした。そうしてその決心と共にまた田口の敷居を跨《また》ぎ出した。
彼らの僕を遇する態度に固《もと》より変りはなかった。僕の彼らに対する様子もまた二カ月前の通りであった。僕と彼らとは故《もと》のごとく笑ったり、ふざけたり、揚足《あげあし》の取りっくらをしたりした。要するに僕の田口で費《つい》やした時間は、騒がしいくらい陽気であった。本当のところをいうと、僕には少し陽気過ぎたのである。したがって腹の中が常に空虚な努力に疲れていた。鋭どい眼で注意したら、どこかに偽《いつわり》の影が射して、本来の自分を醜く彩《いろど》っていたろうと思う。そのうちで自分の気分と自分の言葉が、半紙の裏表のようにぴたりと合った愉快を感じた覚《おぼえ》がただ一遍ある。それは家例として年に一度か二度田口の家族が揃《そろ》って遊びに出る日の出来事であった。僕は知らずに奥へ通って、千代子一人が閑静に坐っているのを見て驚ろいた。彼女は風邪《かぜ》を引いたと見えて、咽喉《のど》に湿布をしていた。常にも似ない蒼《あお》い顔色も淋《さび》しく思われた。微笑しながら、「今日はあたし御留守居よ」と云った時、僕は始めて皆《みんな》出払った事に気がついた。
その日彼女は病気のせいかいつもよりしんみり落ちついていた。僕の顔さえ見ると、きっと冷かし文句を並べて、どうしても悪口の云い合いを挑《いど》まなければやまない彼女が、一人ぼっちで妙に沈んでいる姿を見たとき、僕はふと可憐な心を起した。それで席に着くや否《いな》や、優しい慰藉《いしゃ》の言葉を口から出す気もなく自《おのず》から出した。すると千代子は一種変な表情をして、「あなた今日は大変優しいわね。奥さんを貰《もら》ったらそういう風に優しくしてあげなくっちゃいけないわね」と云った。遠慮がなくて親しみだけ持っていた僕は、今まで千代子に対していくら無愛嬌《ぶあいきょう》に振舞っても差支《さしつかえ》ないものと暗《あん》に自《みず》から許していたのだという事にこの時始めて気がついた。そうして千代子の眼の中《うち》にどこか嬉しそうな色の微《かす》かながら漂ようのを認めて、自分が悪かったと後悔した。
二人はほとんどいっしょに生長したと同じような自分達の過去を振り返った。昔の記憶を語る言葉が互の唇《くちびる》から当時を蘇生《よみがえ》らせる便《たより》として洩《も》れた。僕は千代子の記憶が、僕よりも遥《はる》かに勝《すぐ》れて、細かいところまで鮮《あざ》やかに行き渡っているのに驚ろいた。彼女は今から四年前、僕が玄関に立ったまま袴《はかま》の綻《ほころび》を彼女に縫わせた事まで覚えていた。その時彼女の使ったのは木綿糸《もめんいと》でなくて絹糸であった事も知っていた。
「あたしあなたの描《か》いてくれた画《え》をまだ持っててよ」
なるほどそう云われて見ると、千代子に画を描いてやった覚《おぼえ》があった。けれどもそれは彼女が十二三の時の事で、自分が田口に買って貰った絵具と紙を僕の前へ押しつけて無理矢理に描かせたものである。僕の画道における嗜好《たしなみ》は、それから以後|今日《こんにち》に至るまで、ついぞ画筆《えふで》を握った試しがないのでも分るのだから、赤や緑の単純な刺戟《しげき》が、一通り彼女の眼に映ってしまえば、興味はそこに尽きなければならないはずのものであった。それを保存していると聞いた僕は迷惑そうに苦笑せざるを得なかった。
「見せて上げましょうか」
僕は見ないでもいいと断った。彼女は構わず立ち上がって、自分の室《へや》から僕の画を納めた手文庫を持って来た。
十
千代子はその中から僕の描いた画を五六枚出して見せた。それは赤い椿《つばき》だの、紫《むらさき》の東菊《あずまぎく》だの、色変りのダリヤだので、いずれも単純な花卉《かき》の写生に過ぎなかったが、要《い》らない所にわざと手を掛けて、時間の浪費を厭《いと》わずに、細かく綺麗《きれい》に塗り上げた手際《てぎわ》は、今の僕から見るとほとんど驚ろくべきものであった。僕はこれほど綿密であった自分の昔に感服した。
「あなたそれを描いて下すった時分は、今よりよっぽど親切だったわね」
千代子は突然こう云った。僕にはその意味がまるで分らなかった。画から眼を上げて、彼女の顔を見ると、彼女も黒い大きな瞳《ひとみ》を僕の上にじっと据《す》えていた。僕はどういう訳でそんな事を云うのかと尋ねた。彼女はそれでも答えずに僕の顔を見つめていた。やがていつもより小さな声で「でも近頃頼んだって、そんなに精出して描いては下さらないでしょう」と云った。僕は描くとも描かないとも答えられなかった。ただ腹の中で、彼女の言葉をもっともだと首肯《うけが》った。
「それでもよくこんな物を丹念にしまっておくね」
「あたし御嫁に行く時も持ってくつもりよ」
僕はこの言葉を聞いて変に悲しくなった。そうしてその悲しい気分が、すぐ千代子の胸に応《こた》えそうなのがなお恐ろしかった。僕はその刹那《せつな》すでに涙の溢《あふ》れそうな黒い大きな眼を自分の前に想像したのである。
「そんな下らないものは持って行かないがいいよ」
「いい
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