。すると今まで狂熱に達していた彼の名声が、たちまちどさりと落ちて、広い新大陸に誰一人として彼と握手するものが無くなってしまったので、ゴーリキはやむを得ずそのまま亜米利加を去った。というのが筋であった。
「露西亜と亜米利加ではこれだけ男女《なんにょ》関係の解釈が違うんです。ゴーリキのやりくちは露西亜ならほとんど問題にならないくらい些細《ささい》な事件なんでしょうがね。下らない」と松本は全く下らなそうな顔をした。
「日本はどっちでしょう」と敬太郎は聞いて見た。
「まあ露西亜派でしょうね。僕は露西亜派でたくさんだ」と云って、松本はまた狼煙《のろし》のような濃い煙をぱっと口から吐いた。
ここまで来て見ると、この間の女の事を尋ねるのが敬太郎に取って少しも苦にならないような気がし出した。
「せんだっての晩神田の洋食店で私はあなたに御目にかかったと思うんですが」
「ええ会いましたね。よく覚えています。それから帰りにも電車の中で会ったじゃありませんか。君も江戸川まで乗ったようだが、あすこいらに下宿でもしているんですか。あの晩は雨が降って困ったでしょう」
松本ははたして敬太郎を記憶していた。それを初めから口に出すでもなく、今になってようやく気がついたふりをするでもなく、話してもよし話さないでもよしと云った風の態度が、無邪気から出るのか、度胸から出るのか、または鷹揚《おうよう》な彼の生れつきから出るのか、敬太郎にはちょっと判断しかねた。
「御伴《おつれ》がおありのようでしたが」
「ええ別嬪《べっぴん》を一人|伴《つ》れていました。あなたはたしか一人でしたね」
「一人です。あなたも御帰りには御一人じゃなかったですか」
「そうです」
ちょっとはきはき進んだ問答はここへ来てぴたりととまってしまった。松本がまた女の事を云い出すかと思って待っていると、「あなたの下宿は牛込ですか、小石川ですか」とまるで無関係の問を敬太郎はかけられた。
「本郷です」
松本は腑《ふ》に落ちない顔をして敬太郎を見た。本郷に住んでいる彼が、なぜ江戸川の終点まで乗ったのか、その説明を聞きたいと云わぬばかりの松本の眼つきを見た時、敬太郎は面倒だからここで一つ心持よく万事を打ち明けてしまおうと決心した。もし怒《おこ》られたら、詫《あや》まるだけで、詫まって聞かれなければ、御辞儀《おじぎ》を叮嚀《ていねい》にして帰れば好かろうと覚悟をきめた。
「実はあなたの後《あと》を跟《つ》けてわざわざ江戸川まで来たのです」と云って松本の顔を見ると、案外にも予期したほどの変化も起らないので、敬太郎はまず安心した。
「何のために」と松本はほとんどいつものような緩《ゆる》い口調で聞き返した。
「人から頼まれたのです」
「頼まれた? 誰に」
松本は始めて、少し驚いた声の中《うち》に、並より強いアクセントを置いて、こう聞いた。
十二
「実は田口さんに頼まれたのです」
「田口とは。田口|要作《ようさく》ですか」
「そうです」
「だって君はわざわざ田口の紹介状を持って僕に会いに来たんじゃありませんか」
こう一句一句問いつめられて行くよりは、自分の方で一と思いに今までの経過を話してしまう方が楽な気がするので、敬太郎《けいたろう》は田口の速達便を受取って、すぐ小川町の停留所へ見張《みはり》に出た冒険の第一節目から始めて、電車が江戸川の終点に着いた後の雨の中の立往生に至るまでの顛末《てんまつ》を包まず打ち明けた。固《もと》よりただ筋の通るだけを目的に、誇張は無論|布衍《ふえん》の煩《わずら》わしさもできる限り避けたので、時間がそれほどかからなかったせいか、松本は話の進行している間一口も敬太郎を遮《さえ》ぎらなかった。話が済んでからも、直《すぐ》とは声を出す様子は見えなかった。敬太郎は主人のこの沈黙を、感情を害した結果ではなかろうかと推察して、怒り出されないうちに早く詫《あや》まるに越した事はないと思い定めた。すると主人の方から突然口を利《き》き始めた。
「どうもけしからん奴だね、あの田口という男は。それに使われる君もまた君だ。よっぽどの馬鹿だね」
こういった主人の顔を見ると、呆《あき》れ返っている風は誰の目にも着くが、怒気を帯びた様子は比較的どこにも現われていないので、敬太郎はむしろ安心した。この際馬鹿と呼ばれるぐらいの事は、彼に取って何でもなかったのである。
「どうも悪い事をしました」
「詫まって貰いたくも何ともない。ただ君が御気の毒だから云うのですよ。あんな者に使われて」
「それほど悪い人なんですか」
「いったい何の必要があって、そんな愚《ぐ》な事を引き受けたのです」
物数奇《ものずき》から引き受けたという言葉は、この場合どうしても敬太郎の口へは出て来なかった。彼はやむを得ず、衣食問題の必要上どうしても田口に頼らなければならない事情があるので、面白くないとは知りながら、つい承諾したのだという風な答をした。
「衣食に困るなら仕方がないが、もう止した方がいいですよ。余計な事じゃありませんか、寒いのに雨に降られて人の後《あと》を跟《つ》けるなんて」
「私も少し懲《こ》りました。これからはもうやらないつもりです」
この述懐を聞いた松本は何とも云わず、ただ苦笑《にがわら》いをしていた。それが敬太郎には軽蔑《けいべつ》の意味にも憐愍《れんみん》の意味にも取れるので、彼はいずれにしてもはなはだ肩身の狭い思をした。
「あなたは僕に対してすまん事をしたような風をしているが、実際そうなのですか」
根本義に溯《さかの》ぼったらそれほどに感じていない敬太郎もこう聞かれると、行がかり上そうだと思わざるを得なかった。またそう答えざるを得なかった。
「じゃ田口へ行ってね。この間僕の伴《つ》れていた若い女は高等淫売《こうとういんばい》だって、僕自身がそう保証したと云ってくれたまえ」
「本当にそういう種類の女なんですか」
敬太郎はちょっと驚ろかされた顔をしてこう聞いた。
「まあ何でも好いから、高等淫売だと云ってくれたまえ」
「はあ」
「はあじゃいけない、たしかにそう云わなくっちゃ。云えますか、君」
敬太郎は現代に教育された青年の一人として、こういう意味の言葉を、年長者の前で口にする無遠慮を憚《はば》かるほどの男ではなかった。けれども松本が強《し》いてこの四字を田口の耳へ押し込もうとする奥底には、何か不愉快なある物が潜《ひそ》んでいるらしく思われるので、そう軽々しい調子で引き受ける気も起らなかった。彼が挨拶《あいさつ》に困ってむずかしい顔をしていると、それを見た松本は、「何、君心配しないでもいいですよ。相手が田口だもの」と云ったが、しばらくしてやっと気がついたように、「君は僕と田口との関係をまだ知らないんでしたね」と聞いた。敬太郎は「まだ何にも知りません」と答えた。
十三
「その関係を話すと、君が田口に向ってあの女の事を高等淫売《こうとういんばい》だと云う勇気が出悪《でにく》くなるだけだからつまり僕には損になるんだが、いつまで罪もない君を馬鹿にするのも気の毒だから、聞かして上げよう」
こういう前置を置いた上、松本は田口と自分が社会的にどう交渉しているかを説明してくれた。その説明は最も簡単にすむだけに最も敬太郎《けいたろう》を驚ろかした。それを一言でいうと、田口と松本は近い親類の間柄だったのである。松本に二人の姉があって、一人が須永《すなが》の母、一人が田口の細君、という互の縁続きを始めて呑《の》み込んだ時、敬太郎は、田口の義弟に当る松本が、叔父という資格で、彼の娘と時間を極《きわ》めて停留所で待ち合わした上、ある料理店で会食したという事実を、世間の出来事のうちで最も平凡を極めたものの一つのように見た。それを込み入った文《あや》でも隠しているように、一生懸命に自分の燃やした陽炎《かげろう》を散らつかせながら、後《あと》を追《おっ》かけて歩いたのが、さもさも馬鹿馬鹿しくなって来た。
「御嬢さんは何でまたあすこまで出張《でば》っていたんですか。ただ私を釣るためなんですか」
「何須永へ行った帰りなんです。僕が田口で話していると、あの子が電話をかけて、四時半頃あすこで待ち合せているから、ちょっと帰りに降りてくれというんです。面倒だから止そうと思ったけれども、是非何とかかとかいうから、降りたところがね。今朝《けさ》御父さんから聞いたら、叔父さんが御歳暮《おせいぼ》に指環《ゆびわ》を買ってやると云っていたから、停留所で待ち伏せをして、逃《にが》さないようにいっしょに行って買って貰えと云われたから先刻《さっき》からここで待っていたんだって、人の知りもしないのに、一人で勝手な請求を持ち出してなかなか動かない。仕方がないから、まあ西洋料理ぐらいでごまかしておこうと思って、とうとう宝亭へ連れ込んだんです。――実に田口という男は箆棒《べらぼう》だね。わざわざそれほどの手数《てかず》をかけて、何もそんな下らない真似《まね》をするにも当らないじゃないか。騙《だま》された君よりもよっぽど田口の方が箆棒ですよ」
敬太郎には騙された自分の方が遥《はる》かに愚物《ぐぶつ》に思われた。そうと知ったら、探偵の結果を報告する時にも、もう少しは手加減が出来たものをと、自《おのず》から赧《あか》い顔もしなければならなかった。
「あなたはまるで御承知ない事なんですね」
「知るものかね、君。いくら高等遊民だって、そんな暇の出るはずがないじゃありませんか」
「御嬢さんはどうでしょう。多分御存じなんだろうと思いますが」
「そうさ」と云って松本はしばらく思案していたが、やがて判切《はっきり》した口調で、「いや知るまい」と断言した。「あの箆棒の田口に、一つ取柄《とりえ》があると云えば云われるのだが、あの男はね、いくら悪戯《いたずら》をしても、その悪戯をされた当人が、もう少しで恥を掻《か》きそうな際《きわ》どい時になると、ぴたりととめてしまうか、または自分がその場へ出て来て、当人の体面にかかわらない内に綺麗《きれい》に始末をつける。そこへ行くと箆棒《べらぼう》には違ないが感心なところがあります。つまりやりかたは悪辣《あくらつ》でも、結末には妙に温《あたた》かい情《なさけ》の籠《こも》った人間らしい点を見せて来るんです。今度の事でもおそらく自分一人で呑《の》み込んでいるだけでしょう。君が僕の家《うち》へ来なかったら、僕はきっとこの事件を知らずに済むんだったろう。自分の娘にだって、君の馬鹿を証明するような策略《さくりゃく》を、始めから吹聴《ふいちょう》するほど無慈悲《むじひ》な男じゃない。だからついでに悪戯《いたずら》も止せばいいんだがね、それがどうしても止せないところが、要するに箆棒です」
田口の性格に対する松本のこういう批評を黙って聞いていた敬太郎は、自分の馬鹿な振舞《ふるまい》を顧《かえり》みる後悔よりも、自分を馬鹿にした責任者を怨《うら》むよりも、むしろ悪戯をした田口を頼もしいと思う心が、わが胸の裏《うち》で一番勝を制したのを自覚した。が、はたしてそういう人ならば、なぜ彼の前に出て話をしている間に、あんな窮屈な感じが起るのだろうという不審も自《おの》ずと萌《きざ》さない訳に行かなかった。
「あなたの御話でだいぶ田口さんが解って来たようですが、私はあの方《かた》の前へ出ると、何だか気が落ちつかなくって変に苦しいです」
「そりゃ向うでも君に気を許さないからさ」
十四
こう云われて見ると、田口が自分に気を許していない眼遣《めづかい》やら言葉つきやらがありありと敬太郎《けいたろう》の胸に、疑《うたがい》もない記憶として読まれた。けれども田口ほどの老巧のものに、何で学校を出たばかりの青臭《あおくさ》い自分が、それほど苦になるのか、敬太郎は全く合点《がてん》が行かなかった。彼は見た通りのままの自分で、誰の前へ出ても通用するものと今まで固く己《おの》れを信じていたのである。彼はただかような青年として、他《ひと》に
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