憚《はば》かられたり気をおかれたりする資格さえないように自分を見縊《みくび》っていただけに、経験の程度の違う年長者から、自分の思《おも》わくと違う待遇を受けるのをむしろ不思議に考え出した。
「私はそんな裏表のある人間と見えますかね」
「どうだか、そんな細かい事は初めて会っただけじゃ分らないですよ。しかしあっても無くっても、僕の君に対する待遇にはいっこう関係がないからいいじゃありませんか」
「けれども田口さんからそう思われちゃ……」
「田口は君だからそう思うんじゃない、誰を見てもそう思うんだから仕方がないさ。ああして長い間人を使ってるうちには、だいぶ騙《だま》されなくっちゃならないからね。たまに自然そのままの美くしい人間が自分の前に現われて来ても、やっぱり気が許せないんです。それがああ云う人の因果《いんが》だと思えばそれで好いじゃないか。田口は僕の義兄だから、こう云うと変に聞えるが、本来は美質なんです。けっして悪い男じゃない。ただああして何年となく事業の成功という事だけを重《おも》に眼中に置いて、世の中と闘かっているものだから、人間の見方が妙に片寄って、こいつは役に立つだろうかとか、こいつは安心して使えるだろうかとか、まあそんな事ばかり考えているんだね。ああなると女に惚《ほ》れられても、こりゃ自分に惚れたんだろうか、自分の持っている金に惚れたんだろうか、すぐそこを疑ぐらなくっちゃいられなくなるんです。美人でさえそうなんだから君見たいな野郎が窮屈な取扱を受けるのは当然だと思わなくっちゃいけない。そこが田口の田口たるところなんだから」
 敬太郎はこの批評で田口という男が自分にも判切《はっきり》呑み込めたような気がした。けれどもこういう風に一々彼を肯《うけが》わせるほどの判断を、彼の頭に鉄椎《てっつい》で叩《たた》き込むように入れてくれる松本はそもそも何者だろうか、その点になると敬太郎は依然として茫漠《ぼうばく》たる雲に対する思があった。批評に上《のぼ》らない前の田口でさえ、この男よりはかえって活きた人間らしい気がした。
 同じ松本について見ても、この間の晩神田の洋食屋で、田口の娘を相手にして珊瑚樹《さんごじゅ》の珠《たま》がどうしたとかこうしたとか云っていた時の方が、よっぽど活きて動いていた。今彼の前に坐《すわ》っているのは、大きなパイプを銜《くわ》えた木像の霊が、口を利《き》くと同じような感じを敬太郎に与えるだけなので、彼はただその人の本体を髣髴《ほうふつ》するに苦しむに過ぎなかった。彼が一方では明瞭《めいりょう》な松本の批評に心服しながら、一方では松本の何者なるかをこういう風に考えつつ、自分は頭脳の悪い、直覚の鈍い、世間並以下の人物じゃあるまいかと疑り始めた時、この漠然《ばくぜん》たる松本がまた口を開いた。
「それでも田口が箆棒《べらぼう》をやってくれたため、君はかえって仕合《しあわせ》をしたようなものですね」
「なぜですか」
「きっと何か位置を拵《こし》らえてくれますよ。これなりで放っておきゃ田口でも何でもありゃしない。それは責任を持って受合って上げても宜《い》い。が、つまらないのは僕だ。全く探偵のされ損だから」
 二人は顔を見合せて笑った。敬太郎が丸い更紗《さらさ》の座蒲団《ざぶとん》の上から立ち上がった時、主人はわざわざ玄関まで送って出た。そこに飾ってあった墨絵の鶴の衝立《ついたて》の前に、瘠《や》せた高い身体《からだ》をしばらく佇《たた》ずまして、靴を穿《は》く敬太郎の後姿《うしろすがた》を眺《なが》めていたが、「妙な洋杖《ステッキ》を持っていますね。ちょっと拝見」と云った。そうしてそれを敬太郎の手から受取って、「へえ、蛇《へび》の頭だね。なかなか旨《うま》く刻《ほ》ってある。買ったんですか」と聞いた。「いえ素人《しろうと》が刻ったのを貰ったんです」と答えた敬太郎は、それを振りながらまた矢来《やらい》の坂を江戸川の方へ下《くだ》った。


     雨の降る日

        一

 雨の降る日に面会を謝絶した松本の理由は、ついに当人の口から聞く機会を得ずに久しく過ぎた。敬太郎《けいたろう》もそのうちに取り紛《まぎ》れて忘れてしまった。ふとそれを耳にしたのは、彼が田口の世話で、ある地位を得たのを縁故に、遠慮なく同家へ出入《しゅつにゅう》のできる身になってからの事である。その時分の彼の頭には、停留所の経験がすでに新らしい匂いを失いかけていた。彼は時々|須永《すなが》からその話を持ち出されては苦笑するに過ぎなかった。須永はよく彼に向って、なぜその前に僕の所へ来て打ち明けなかったのだと詰問した。内幸町の叔父が人を担《かつ》ぐくらいの事は、母から聞いて知っているはずだのにと窘《たし》なめる事もあった。しまいには、君があんまり色気があり過ぎるからだと調戯《からか》い出した。敬太郎はそのたびに「馬鹿云え」で通していたが、心の内ではいつも、須永の門前で見た後姿の女を思い出した。その女がとりも直さず停留所の女であった事も思い出した。そうしてどこか遠くの方で気恥かしい心持がした。その女の名が千代子《ちよこ》で、その妹の名が百代子《ももよこ》である事も、今の敬太郎には珍らしい報知ではなかった。
 彼が松本に会って、すべて内幕の消息を聞かされた後《あと》、田口へ顔を出すのは多少きまりの悪い思をするだけであったにかかわらず、顔を出さなければ締《し》め括《くく》りがつかないという行きがかりから、笑われるのを覚悟の前で、また田口の門を潜《くぐ》った時、田口ははたして大きな声を出して笑った。けれどもその笑の中《うち》には己《おの》れの機略に誇る高慢の響よりも、迷った人を本来の路《みち》に返してやった喜びの勝利が聞こえているのだと敬太郎には解釈された。田口はその時訓戒のためだとか教育の方法だとかいった風の、恩に着せた言葉をいっさい使わなかった。ただ悪意でした訳でないから、怒《おこ》ってはいけないと断わって、すぐその場で相当の位置を拵《こし》らえてくれる約束をした。それから手を鳴らして、停留所に松本を待ち合わせていた方の姉娘を呼んで、これが私《わたし》の娘だとわざわざ紹介した。そうしてこの方《かた》は市《いっ》さんの御友達だよと云って敬太郎を娘に教えていた。娘は何でこういう人に引き合されるのか、ちょっと解《かい》しかねた風をしながら、極《きわ》めてよそよそしく叮嚀《ていねい》な挨拶《あいさつ》をした。敬太郎が千代子という名を覚えたのはその時の事であった。
 これが田口の家庭に接触した始めての機会になって、敬太郎はその後《ご》も用事なり訪問なりに縁を藉《か》りて、同じ人の門を潜る事が多くなった。時々は玄関脇の書生部屋へ這入《はい》って、かつて電話で口を利《き》き合った事のある書生と世間話さえした。奥へも無論通る必要が生じて来た。細君に呼ばれて内向《うちむき》の用を足す場合もあった。中学校へ行く長男から英語の質問を受けて窮する事も稀《まれ》ではなかった。出入《でいり》の度数がこう重なるにつれて、敬太郎が二人の娘に接近する機会も自然多くなって来たが、一種|間《ま》の延びた彼の調子と、比較的引き締《しま》った田口の家風と、差向いで坐る時間の欠乏とが、容易に打ち解けがたい境遇に彼らを置き去りにした。彼らの間に取り換わされた言葉は、無論形式だけを重んずる堅苦しいものではなかったが、大抵は五分とかからない当用に過ぎないので、親しみはそれほど出る暇がなかった。彼らが公然と膝《ひざ》を突き合わせて、例になく長い時間を、遠慮の交《まじ》らない談話に更《ふ》かしたのは、正月|半《なか》ばの歌留多会《かるたかい》の折であった。その時敬太郎は千代子から、あなた随分|鈍《のろ》いのねと云われた。百代子からは、あたしあなたと組むのは厭《いや》よ、負けるにきまってるからと怒《おこ》られた。
 それからまた一カ月ほど経《た》って、梅の音信《たより》の新聞に出る頃、敬太郎はある日曜の午後を、久しぶりに須永の二階で暮した時、偶然遊びに来ていた千代子に出逢《であ》った。三人してそれからそれへと纏《まと》まらない話を続けて行くうちに、ふと松本の評判が千代子の口に上《のぼ》った。
「あの叔父さんも随分変ってるのね。雨が降ると一しきりよく御客を断わった事があってよ。今でもそうかしら」

        二

「実は僕も雨の降る日に行って断られた一人《いちにん》なんだが……」と敬太郎《けいたろう》が云い出した時、須永《すなが》と千代子は申し合せたように笑い出した。
「君も随分運の悪い男だね。おおかた例の洋杖《ステッキ》を持って行かなかったんだろう」と須永は調戯《からか》い始めた。
「だって無理だわ、雨の降る日に洋杖なんか持って行けったって。ねえ田川さん」
 この理攻《りぜ》めの弁護を聞いて、敬太郎も苦笑した。
「いったい田川さんの洋杖って、どんな洋杖なの。わたしちょっと見たいわ。見せてちょうだい、ね、田川さん。下へ行って見て来ても好くって」
「今日は持って来ません」
「なぜ持って来ないの。今日はあなたそれでも好い御天気よ」
「大事な洋杖だから、いくら好い御天気でも、ただの日には持って出ないんだとさ」
「本当?」
「まあそんなものです」
「じゃ旗日《はたび》にだけ突いて出るの」
 敬太郎は一人で二人に当っているのが少し苦しくなった。この次内幸町へ行く時は、きっと持って行って見せるという約束をしてようやく千代子の追窮を逃《のが》れた。その代り千代子からなぜ松本が雨の降る日に面会を謝絶したかの源因を話して貰う事にした。――
 それは珍らしく秋の日の曇った十一月のある午過《ひるすぎ》であった。千代子は松本の好きな雲丹《うに》を母からことづかって矢来《やらい》へ持って来た。久しぶりに遊んで行こうかしらと云って、わざわざ乗って来た車まで返して、緩《ゆっ》くり腰を落ちつけた。松本には十三になる女を頭《かしら》に、男、女、男と互違《たがいちがい》に順序よく四人の子が揃《そろ》っていた。これらは皆二つ違いに生れて、いずれも世間並に成長しつつあった。家庭に華《はな》やかな匂を着けるこの生き生きした装飾物の外に、松本夫婦は取って二つになる宵子《よいこ》を、指環に嵌《は》めた真珠のように大事に抱《だ》いて離さなかった。彼女は真珠のように透明な青白い皮膚と、漆《うるし》のように濃い大きな眼を有《も》って、前の年の雛《ひな》の節句の前の宵《よい》に松本夫婦の手に落ちたのである。千代子は五人のうちで、一番この子を可愛《かわい》がっていた。来るたんびにきっと何か玩具《おもちゃ》を買って来てやった。ある時は余り多量に甘《あま》いものをあてがって叔母から怒《おこ》られた事さえある。すると千代子は、大事そうに宵子を抱いて縁側《えんがわ》へ出て、ねえ宵子さんと云っては、わざと二人の親しい様子を叔母に見せた。叔母は笑いながら、何だね喧嘩《けんか》でもしやしまいしと云った。松本は、御前そんなにその子が好きなら御祝いの代りに上げるから、嫁に行くとき持っておいでと調戯《からか》った。
 その日も千代子は坐ると直《すぐ》宵子を相手にして遊び始めた。宵子は生れてからついぞ月代《さかやき》を剃《そ》った事がないので、頭の毛が非常に細く柔《やわら》かに延びていた。そうして皮膚の青白いせいか、その髪の色が日光に照らされると、潤沢《うるおい》の多い紫《むらさき》を含んでぴかぴか縮《ちぢ》れ上っていた。「宵子さんかんかん結《い》って上げましょう」と云って、千代子は鄭寧《ていねい》にその縮れ毛に櫛《くし》を入れた。それから乏しい片鬢《かたびん》を一束|割《さ》いて、その根元に赤いリボンを括《くく》りつけた。宵子の頭は御供《おそなえ》のように平らに丸く開いていた。彼女は短かい手をやっとその御供の片隅《かたすみ》へ乗せて、リボンの端《はじ》を抑えながら、母のいる所までよたよた歩いて来て、イボンイボンと云った。母がああ好くかんかんが結えましたねと賞《
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