思議に聞こえた。彼はなぜ雨が降っては面会に差支《さしつか》えるのか直《すぐ》反問したくなった。けれども下女に議論を仕かけるのも一種変な場合なので、「じゃ御天気の日に伺がえば御目にかかれるんですね」と念晴《ねんばら》しに聞き直して見た。下女はただ「はい」と答えただけであった。敬太郎は仕方なしにまた雨の降る中へ出た。ざあと云う音が急に烈《はげ》しく聞こえる中に、子供の鳴らす太鼓がまだどんどんと響いていた。彼は矢来の坂を下《お》りながら変な男があったものだという観念を数度《すど》くり返した。田口がただでさえ会《あ》い悪《にく》いと云ったのは、こんなところを指すのではなかろうかとも考えた。その日は家《うち》へ帰っても、気分が中止の姿勢に余儀なく据《す》えつけられたまま、どの方角へも進行できないのが苦痛になった。久しぶりに須永《すなが》の家《うち》へでも行って、この間からの顛末《てんまつ》を茶話に半日を暮らそうかと考えたが、どうせ行くなら、今の仕事に一段落つけて、自分にも見当《けんとう》の立った筋を吹聴《ふいちょう》するのでなくては話しばいもしないので、ついに行かずじまいにしてしまった。
翌日《あくるひ》は昨日《きのう》と打って変って好い天気になった。起き上る時、あらゆる濁《にごり》を雨の力で洗い落したように綺麗《きれい》に輝やく蒼空《あおぞら》を、眩《まば》ゆそうに仰ぎ見た敬太郎は、今日《きょう》こそ松本に会えると喜こんだ。彼はこの間の晩|行李《こうり》の後《うしろ》に隠しておいた例の洋杖《ステッキ》を取り出して、今日は一つこれを持って行って見ようと考がえた。彼はそれを突いて、また矢来《やらい》の坂を上《あが》りながら、昨日の下女が今日も出て来て、せっかくですが今日は御天気過ぎますから、も少《すこ》し曇った日においで下さいましと云ったらどんなものだろうと想像した。
九
ところが昨日と違って、門を潜《くぐ》っても、子供の鳴らす太鼓の音は聞こえなかった。玄関にはこの前目に着かなかった衝立《ついたて》が立っていた。その衝立には淡彩《たんさい》の鶴がたった一羽|佇《たた》ずんでいるだけで、姿見のように細長いその格好《かっこう》が、普通の寸法と違っている意味で敬太郎の注意を促《うな》がした。取次には例の下女が現われたには相違ないが、その後《あと》から遠慮のない足音をどんどん立てて二人の小供が衝立の影まで来て、珍らしそうな顔をして敬太郎を眺《なが》めた。昨日に比べるとこれだけの変化を認めた彼は、最後にどうぞという案内と共に、硝子戸《ガラスど》の締《し》まっている座敷へ通った。その真中にある金魚鉢のように大きな瀬戸物の火鉢《ひばち》の両側に、下女は座蒲団《ざぶとん》を一枚ずつ置いて、その一枚を敬太郎の席とした。その座蒲団は更紗《さらさ》の模様を染めた真丸の形をしたものなので、敬太郎は不思議そうにその上へ坐《すわ》った。床《とこ》の間《ま》には刷毛《はけ》でがしがしと粗末《ぞんざい》に書いたような山水《さんすい》の軸《じく》がかかっていた。敬太郎はどこが樹でどこが巌《いわ》だか見分のつかない画を、軽蔑《けいべつ》に値する装飾品のごとく眺《なが》めた。するとその隣りに銅鑼《どら》が下《さが》っていて、それを叩《たた》く棒まで添えてあるので、ますます変った室《へや》だと思った。
すると間《あい》の襖《ふすま》を開けて隣座敷から黒子《ほくろ》のある主人が出て来た。「よくおいでです」と云ったなり、すぐ敬太郎の鼻の先に坐ったが、その調子はけっして愛嬌《あいきょう》のある方ではなかった。ただどこかおっとりしているので、相手に余り重きを置かないところが、かえって敬太郎に楽な心持を与えた。それで火鉢一つを境に、顔と顔を突き合わせながら、敬太郎は別段気がつまる思もせずにいられた。その上彼はこの間の晩、たしかに自分の顔をここの主人に覚えられたに違ないと思い込んでいたにもかかわらず、今会って見ると、覚えているのだか、いないのだか、平然としてそんな素振《そぶり》は、口にも色にも出さないので、彼はなおさら気兼《きがね》の必要を感じなくなった。最後に主人は昨日雨天のため面会を謝絶した理由も言訳も一言《ひとこと》も述べなかった。述べたくなかったのか、述べなくっても構わないと認めていたのか、それすら敬太郎にはまるで判断がつかなかった。
話は自然の順序として、紹介者になった田口の事から始まった。「あなたはこれから田口に使って貰《もら》おうというのでしたね」というのを冒頭に、主人は敬太郎の志望だの、卒業の成績だのを一通り聞いた。それから彼のいまだかつて考えた事もない、社会観とか人生観とかいうこむずかしい方面の問題を、時々持ち出して彼を苦しめた。彼はその時心のうちで、この松本という男は世に著《あら》われない学者の一人なのではなかろうかと疑ぐったくらい、妙な理窟《りくつ》をちらちらと閃《ひら》めかされた。そればかりでなく、松本は田口を捕《つら》まえて、役には立つが頭のなっていない男だと罵《のの》しった。
「第一《だいち》ああ忙がしくしていちゃ、頭の中に組織立った考《かんがえ》のできる閑《ひま》がないから駄目です。あいつの脳と来たら、年《ねん》が年中《ねんじゅう》摺鉢《すりばち》の中で、擂木《すりこぎ》に攪《か》き廻されてる味噌《みそ》見たようなもんでね。あんまり活動し過ぎて、何の形にもならない」
敬太郎にはなぜこの主人が田口に対してこうまで悪体《あくたい》を吐《つ》くのかさっぱり訳が分らなかった。けれども彼の不思議に感じたのは、これほどの激語を放つ主人の態度なり口調なりに、毫《ごう》も毒々しいところだの、小悪《こにく》らしい点だのの見えない事であった。彼の罵《のの》しる言葉は、人を罵しった経験を知らないような落ちつきを具《そな》えた彼の声を通して、敬太郎の耳に響くので、敬太郎も強く反抗する気になれなかった。ただ一種変った人だという感じが新たに刺戟《しげき》を受けるだけであった。
「それでいて、碁《ご》を打つ、謡《うたい》を謡《うた》う。いろいろな事をやる。もっともいずれも下手糞《へたくそ》なんですが」
「それが余裕《よゆう》のある証拠《しょうこ》じゃないでしょうか」
「余裕って君。――僕は昨日《きのう》雨が降るから天気の好い日に来てくれって、あなたを断わったでしょう。その訳は今云う必要もないが、何しろそんなわがままな断わり方が世間にあると思いますか。田口だったらそう云う断り方はけっしてできない。田口が好んで人に会うのはなぜだと云って御覧。田口は世の中に求めるところのある人だからです。つまり僕のような高等遊民《こうとうゆうみん》でないからです。いくら他《ひと》の感情を害したって、困りゃしないという余裕がないからです」
十
「実は田口さんからは何にも伺がわずに参ったのですが、今御使いになった高等遊民という言葉は本当の意味で御用いなのですか」
「文字通りの意味で僕は遊民ですよ。なぜ」
松本は大きな火鉢《ひばち》の縁《ふち》へ両肱《りょうひじ》を掛けて、その一方の先にある拳骨《げんこつ》を顎《あご》の支えにしながら敬太郎《けいたろう》を見た。敬太郎は初対面の客を客と感じていないらしいこの松本の様子に、なるほど高等遊民の本色《ほんしょく》があるらしくも思った。彼は煙草《たばこ》道楽と見えて、今日は大きな丸い雁首《がんくび》のついた木製の西洋パイプを口から離さずに、時々思い出したような濃い煙を、まだ火の消えていない証拠として、狼煙《のろし》のごとくぱっぱっと揚げた。その煙が彼の顔の傍《そば》でいつの間にか消えて行く具合が、どこにも締《しま》りを設ける必要を認めていないらしい彼の眼鼻と相待って、今まで経験した事のない一種静かな心持を敬太郎に与えた。彼は少し薄くなりかかった髪を、頭の真中から左右へ分けているので、平たい頭がなおの事尋常に落ちついて見えた。彼はまた普通世間の人が着ないような茶色の無地の羽織を着て、同じ色の上足袋《うわたび》を白の上に重ねていた。その色がすぐ坊主の法衣《ころも》を聯想《れんそう》させるところがまた変に特別な男らしく敬太郎の眼に映った。自分で高等遊民だと名乗るものに会ったのはこれが始めてではあるが、松本の風采《ふうさい》なり態度なりが、いかにもそう云う階級の代表者らしい感じを、少し不意を打たれた気味の敬太郎に投げ込んだのは事実であった。
「失礼ながら御家族は大勢でいらっしゃいますか」
敬太郎は自《みず》から高等遊民と称する人に対して、どういう訳かまずこういう問がかけて見たかった。すると松本は「ええ子供がたくさんいます」と答えて、敬太郎の忘れかかっていたパイプからぱっと煙を出した。
「奥さんは……」
「妻《さい》は無論います。なぜですか」
敬太郎は取り返しのつかない愚《ぐ》な問を出して、始末に行かなくなったのを後悔した。相手がそれほど感情を害した様子を見せないにしろ、不思議そうに自分の顔を眺めて、解決を予期している以上は、何とか云わなければすまない場合になった。
「あなたのような方が、普通の人間と同じように、家庭的に暮して行く事ができるかと思ってちょっと伺ったまでです」
「僕が家庭的に……。なぜ。高等遊民だからですか」
「そう云う訳でも無いんですが、何だかそんな心持がしたからちょっと伺がったのです」
「高等遊民は田口などよりも家庭的なものですよ」
敬太郎はもう何も云う事がなくなってしまった。彼の頭脳の中では、返事に行き詰まった困却と、ここで問題を変えようとする努力と、これを緒口《いとくち》に、革《かわ》の手袋を穿《は》めた女の関係を確かめたい希望が三ついっしょに働らくので、元からそれほど秩序の立っていない彼の思想になおさら暗い影を投げた。けれども松本はそんな事にまるで注意しない風で、困った敬太郎の顔を平気に眺《なが》めていた。もしこれが田口であったなら手際《てぎわ》よく相手を打ち据《す》える代りに、打ち据えるとすぐ向うから局面を変えてくれて、相手に見苦るしい立ち往生などはけっしてさせない鮮《あざ》やかな腕を有《も》っているのにと敬太郎は思った。気はおけないが、人を取扱かう点において、全く冴《さ》えた熟練を欠いている松本の前で、敬太郎は図《はか》らず二人の相違を認めたような気がしていると、松本は偶然「あなたはそういう問題を考えて見た事がないようですね」と聞いてくれた。
「ええまるで考えていません」
「考える必要はありませんね。一人で下宿している以上は。けれどもいくら一人だって、広い意味での男対女の問題は考えるでしょう」
「考えると云うよりむしろ興味があるといった方が適当かも知れません。興味なら無論あります」
十一
二人は人間として誰しも利害を感ずるこの問題についてしばらく話した。けれども年歯《とし》の違だか段の違だか、松本の云う事は肝心《かんじん》の肉を抜いた骨組だけを並べて見せるようで、敬太郎《けいたろう》の血の中まで這入《はい》り込んで来て、共に流れなければやまないほどの切実な勢《いきおい》をまるで持っていなかった。その代り敬太郎の秩序立たない断片的の言葉も口を出るとすぐ熱を失って、少しも松本の胸に徹《とお》らないらしかった。
こんな縁遠い話をしている中《うち》で、ただ一つ敬太郎の耳に新らしく響いたのは、露西亜《ロシヤ》の文学者のゴーリキとかいう人が、自分の主張する社会主義とかを実行する上に、資金の必要を感じて、それを調達《ちょうたつ》のため細君同伴で亜米利加《アメリカ》へ渡った時の話であった。その時ゴーリキは大変な人気を一身に集めて、招待やら驩迎《かんげい》やらに忙殺《ぼうさつ》されるほどの景気のうちに、自分の目的を苦もなく着々と進行させつつあった。ところが彼の本国から伴《つ》れて来た細君というのが、本当の細君でなくて単に彼の情婦に過ぎないという事実がどこからか曝露《ばくろ》した
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