以後、中折を被《かぶ》った男の人柄《ひとがら》と、世の中にまるで疑《うたがい》をかけていないその眼つきとを注意した結果、この時ふと、こんな窮屈な思いをして、いらざる材料を集めるよるも、いっそ露骨《むきだし》にこっちから話しかけて、当人の許諾を得た事実だけを田口に報告した方が、今更|遅蒔《おそまき》のようでも、まだ気が利《き》いていやしないかと考えて、自分で自分を彼に紹介する便法《べんぽう》を工夫し始めた。そのうち電車はとうとう終点まで来た。雨はますます烈しくなったと見えて、車がとまるとざあという音が急に彼の耳を襲《おそ》った。中折の男は困ったなと云いながら、外套《がいとう》の襟《えり》を立てて洋袴《ズボン》の裾《すそ》を返した。敬太郎は洋杖を突きながら立ち上った。男は雨の中へ出ると、直《すぐ》寄って来る俥引《くるまひき》を捕《つら》まえた。敬太郎も後《おく》れないように一台雇った。車夫は梶棒《かじぼう》を上げながら、どちらへと聞いた。敬太郎はあの車の後《あと》について行けと命じた。車夫はへいと云ってむやみに馳《か》け出した。一筋道を矢来《やらい》の交番の下まで来ると、車夫は又梶棒をとめて、旦那どっちへ行くんですと聞いた。男の乗った車はいくら幌《ほろ》の内から延び上っても影さえ見えなかった。敬太郎は車上に洋杖を突っ張ったまま、雨の音のする中で方角に迷った。


     報告

        一

 眼が覚《さ》めると、自分の住み慣《な》れた六畳に、いつもの通り寝ている自分が、敬太郎《けいたろう》には全く変に思われた。昨日《きのう》の出来事はすべて本当のようでもあった。また纏《まと》まりのない夢のようでもあった。もっと綿密に形容すれば、「本当の夢」のようでもあった。酔った気分で町の中に活動したという記憶も伴なっていた。それよりか、酔った気分が世の中に充《み》ち充ちていたという感じが一番強かった。停留所も電車も酔った気分に充ちていた。宝石商も、革屋《かわや》も、赤と青の旗振りも、同じ空気に酔っていた。薄青いペンキ塗の洋食店の二階も、そこに席を占めた眉《まゆ》の間に黒子《ほくろ》のある紳士も、色の白い女も、ことごとくこの空気に包まれていた。二人の話しに出て来る、どこにあるか分らない所の名も、男が女にやる約束をした珊瑚《さんご》の珠《たま》も、みんな陶然《とうぜん》とした一種の気分を帯びていた。最もこの気分に充《み》ちて活躍したものは竹の洋杖《ステッキ》であった。彼がその洋杖を突いたまま、幌《ほろ》を打つ雨の下で、方角に迷った時の心持は、この気分の高潮に達した幕前の一区切《ひとくぎり》として、ほとんど狐から取り憑《つ》かれた人の感じを彼に与えた。彼はその時店の灯《ひ》で佗《わ》びしく照らされたびしょ濡《ぬ》れの往来と、坂の上に小さく見える交番と、その左手にぼんやり黒くうつる木立とを見廻して、はたしてこれが今日の仕事の結末かと疑ぐった。彼はやむを得ず車夫に梶棒《かじぼう》を向け直させて、思いも寄らない本郷へ行けと命じた事を記憶していた。
 彼は寝ながら天井《てんじょう》を眺《なが》めて、自分に最も新らしい昨日の世界を、幾順となく眼の前に循環させた。彼は二日酔《ふつかよい》の眼と頭をもって、蚕《かいこ》の糸を吐《は》くようにそれからそれへと出てくるこの記念《かたみ》の画《え》を飽《あ》かず見つめていたが、しまいには眼先に漂《ただ》ようふわふわした夢の蒼蠅《うるさ》さに堪《た》えなくなった。それでも後《あと》から後からと向うで独《ひと》り勝手《がって》に現われて来るので、彼は正気でありながら、何かに魅入られたのではなかろうかと云う疑さえ起した。彼はこの浅い疑に関聯《かんれん》して、例の洋杖を胸に思い浮べざるを得なかった。昨日の男も女も彼の眼には絵を見るほど明らかであった。容貌《ようぼう》は固《もと》より服装《なり》から歩きつきに至るまでことごとく記憶の鏡に判切《はっき》りと映った。それでいて二人とも遠くの国にいるような心持がした。遠くの国にいながら、つい近くにあるものを見るように、鮮《あざ》やかな色と形を備えて眸《ひとみ》を侵《おか》して来た。この不思議な影響が洋杖から出たかも知れないという神経を敬太郎はどこかに持っていた。彼は昨夕《ゆうべ》法外な車賃を貪ぼられて、宿の門口《かどぐち》を潜《くぐ》った時、何心なくその洋杖を持ったまま自分の室《へや》まで帰って来て、これは人の目に触れる所に置くべきものでないという顔をして、寝る前に、戸棚《とだな》の奥の行李《こうり》の後《うしろ》へ投げ込んでしまったのである。
 今朝《けさ》は蛇《へび》の頭にそれほどの意味がないようにも思われた。ことにこれから田口に逢って、探偵の結果を報告しなければならないと云う実際問題の方が頭に浮いて来ると、なおさらそういう感じが深くなった。彼は一日の午後から宵《よい》へかけて、妙に一種の空気に酔わされた気分で活動した自覚はたしかにあるが、いざその活動の結果を、普通の人間が処世上に利用できるように、筋の立った報告に纏《まと》める段になると、自分の引き受けた仕事は成効《せいこう》しているのか失敗しているのかほとんど分らなかった。したがって洋杖《ステッキ》の御蔭《おかげ》を蒙《こうむ》っているのか、いないのかも判然しなかった。床の中で前後をくり返した敬太郎には、まさしくその御蔭を蒙っているらしくも見えた。またけっしてその御蔭を蒙っていないようにも思われた。
 彼はともかくも二日酔の魔を払い落してからの事だと決心して、急に夜着《よぎ》を剥《は》ぐって跳《は》ね起きた。それから洗面所へ下りて氷るほど冷めたい水で頭をざあざあ洗った。これで昨日《きのう》の夢を髪の毛の根本から振い落して、普通の人間に立ち還ったような気になれたので、彼は景気よく三階の室《へや》に上《のぼ》った。そこの窓を潔《いさ》ぎよく明け放した彼は、東向に直立して、上野の森の上から高く射す太陽の光を全身に浴びながら、十遍ばかり深呼吸をした。こう精神作用を人間並に刺戟《しげき》した後で、彼は一服しながら、田口へ報告すべき事柄の順序や条項について力《つと》めて実際的に思慮を回《めぐ》らした。

        二

 突きとめて見ると、田口の役に立ちそうな種はまるで上がっていないようにも思われるので、敬太郎《けいたろう》は少し心細くなって来た。けれども先方では今朝にも彼の報告を待ち受けているように気が急《せ》くので、彼はさっそく田口家へ電話を掛けた。これから直《すぐ》行っていいかと聞くと、だいぶ待たした後《あと》で、差支《さしつかえ》ないという答が、例の書生の口を通して来たので、彼は猶予《ゆうよ》なく内幸町へ出かけた。
 田口の門前には車が二台待っていた。玄関にも靴と下駄《げた》が一足ずつあった。彼はこの間と違って日本間の方へ案内された。そこは十畳ほどの広い座敷で、長い床に大きな懸物《かけもの》が二幅掛かっていた。湯呑《ゆのみ》のような深い茶碗《ちゃわん》に、書生が番茶を一杯|汲《く》んで出した。桐《きり》を刳《く》った手焙《てあぶり》も同じ書生の手で運ばれた。柔かい座蒲団《ざぶとん》も同じ男が勧めてくれただけで、女はいっさい出て来なかった。敬太郎は広い室の真中に畏《かしこ》まって、主人の足音の近づくのを窮屈に待った。ところがその主人は用談が果てないと見えて、いつまで待ってもなかなか現われなかった。敬太郎はやむを得ず茶色になった古そうな懸物《かけもの》の価額《ねだん》を想像したり、手焙の縁《ふち》を撫《な》で廻したり、あるいは袴《はかま》の膝《ひざ》へきちりと両手を乗せて一人改たまって見たりした。すべて自分の周囲《まわり》があまり綺麗《きれい》に調《ととの》っているだけに、居心地が新らし過ぎて彼は容易に落ちつけなかったのである。しまいに違棚《ちがいだな》の上にある画帖《がじょう》らしい物を取りおろしてみようかと思ったが、その立派な表紙が、これは装飾だから手を触れちゃいけないと断《ことわ》るように光るので、彼はついに手を出しかねた。
 こう敬太郎の神経を悩ました主人は、彼をやや小一時間も待たした後《あと》で、ようやく応接間から出て来た。
「どうも長い間御待たせ申して。――客がなかなか帰らないものだから」
 敬太郎はこの言訳に対して適当と思うような挨拶《あいさつ》を一と口と、それに添えた叮嚀《ていねい》な御辞儀《おじぎ》を一つした。それからすぐ昨日《きのう》の事を云い出そうとしたが、何をどう先に述べたら都合がいいか、この場に臨んで急にまた迷い始めたうちに、切り出す機を逸してしまった。主人はまた冒頭からさも忙がしそうに声も身体《からだ》も取り扱かっている癖に、どこか腹の中に余裕《よゆう》の貯蔵庫でもあるように、けっして周章《あわて》て探偵の結果を聞きたがらなかった。本郷では氷が張るかとか、三階では風が強く当るだろうとか、下宿にも電話があるのかとか、調子は至極《しごく》面白そうだけれども、その実つまらない事ばかり話の種にした。敬太郎は向うの問に従って主人の満足する程度にわが答えを運んでいたが、相手はこんな無意味な話を進めて行くうちに、暗《あん》に彼の様子を注意しているらしかった。そこまでは彼もぼんやり気がついた。しかし主人がなぜそんな注意を自分に払うのか、その訳《わけ》はまるで解らなかった。すると、
「どうです昨日《きのう》は。旨《うま》く行きましたか」と主人が突然聞き出した。こう聞かれるだろうぐらいの腹は始めから敬太郎にもあったのだが、正直に答えれば、「どうですか」という他《ひと》を馬鹿にした生返事になるので、彼はちょっと口籠《くちごも》った後《あと》、
「そうです御通知のあった人だけはやっと探し当てました」と答えた。
「眉間《みけん》に黒子《ほくろ》がありましたか」
 敬太郎は少し隆起した黒い肉の一点を局部に認めたと答えた。
「衣服《なり》もこっちから云って上げた通りでしたか。黒の中折《なかおれ》に、霜降《しもふり》の外套《がいとう》を着て」
「そうです」
「それじゃ大抵間違はないでしょう。四時と五時の間に小川町で降りたんですね」
「時間は少し後《おく》れたようです」
「何分ぐらい」
「何分か知りませんが、何でも五時よっぽど過《すぎ》のようでした」
「よっぽど過《すぎ》。よっぽど過ならそんな人を待っていなくても好いじゃありませんか。四時から五時までの間と、わざわざ時間を切って通知して上げたくらいだから、五時を過ぎればもうあなたの義務はすんだも同然じゃないですか。なぜそのまま帰って、その通り報知しないんです」
 今まで穏《おだ》やかに機嫌《きげん》よく話していた長者《ちょうしゃ》から突然こう手厳《てきび》しくやりつけられようとは、敬太郎は夢にも思わなかった。

        三

 敬太郎《けいたろう》は今まで下町出《したまちで》の旦那を眼の前に描いていた。それが突然規律ずくめの軍人として彼を威圧して来た時、彼はたちまち心の中心を狂わした。友達に対してなら云い得る「君のためだから」という言葉も挨拶《あいさつ》も有《も》っていたのだが、この場合にはそれがまるで役に立たなかった。
「ただ私の勝手で、時間が来てもそこを動かなかったのです」
 敬太郎がこう答えるか答えないうちに、田口は今のきっとした態度をすぐ崩《くず》して、
「そりゃ私《わたし》のために大変都合が好かった」と機嫌《きげん》の好い調子で受けたが、「しかしあなたの勝手と云うのは何です」と聞き返した。敬太郎は少し逡巡《しゅんじゅん》した。
「なにそりゃ聞かないでも構いません。あなたの事だから。話したくなければ話さないでも差支《さしつかえ》ない」
 田口はこう云って、自分の前に引きつけた手提煙草盆《てさげたばこぼん》の抽出《ひきだし》を開けると、その中から角《つの》でできた細長い耳掻《みみかき》を捜《さが》し出した。それを右の耳の中に入れて、さも痒《か》ゆ
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