うとするなら、どうしても一足先へ出て、相手に気のつかない物陰か何かで、待ち合せるよりほかに仕方がないと考えた。敬太郎は早く勘定を済ましておくに若《し》くはないという気になって、早速|給仕《ボーイ》を呼んでビルを請求した。
 男と女はまだ落ちついて話していた。しかし二人の間に何というきまった題目も起らないので、それを種に意見や感情の交換《とりやり》も始まる機会《おり》はなく、ただだらしのない雲のようにそれからそれへと流れて行くだけに過ぎなかった。男の特徴に数えられた眉《まゆ》と眉の間の黒子《ほくろ》なども偶然女の口に上《のぼ》った。
「なぜそんな所に黒子なんぞができたんでしょう」
「何も近頃になって急にできやしまいし、生れた時からあるんだ」
「だけどさ。見っともなかなくって、そんな所《とこ》にあって」
「いくら見っともなくっても仕方がないよ。生れつきだから」
「早く大学へ行って取って貰うといいわ」
 敬太郎はこの時|指洗椀《フィンガーボール》の水に自分の顔の映るほど下を向いて、両手で自分の米噛《こめかみ》を隠すように抑《おさ》えながら、くすくすと笑った。ところへ給仕が釣銭を盆に乗せて持って来た。敬太郎はそっと立って目立たないように階段《はしごだん》の上《あが》り口《くち》までおとなしく足を運ぶと、そこに立っていた給仕が大きな声で、「御立あち」と下へ知らせた。同時に敬太郎は先刻《さっき》給仕に預けた洋杖《ステッキ》を取って来るのを忘れた事に気がついた。その洋杖はいまだに室《へや》の隅《すみ》に置いてある帽子掛の下に突き込まれたまま、女の長いコートの裾《すそ》に隠されていた。敬太郎は室の中にいる男女《なんにょ》を憚《はば》かるように、抜き足で後戻りをして、静かにそれを取り出した。彼が蛇の頭を握った時、すべすべした羽二重《はぶたえ》の裏と、柔かい外套《がいとう》の裏が、優しく手の甲に触れるのを彼は感じた。彼はまた爪先で歩かないばかりに気をつけて階段の上まで来ると、そこから急に調子を変えて、とん、とん、とんと刻《きざ》み足《あし》に下へ駆《か》け下りた。表へ出るや否や電車通を直ぐ向うへ横切った。その突き当りに、大きな古着屋のような洋服屋のような店があるので、彼はその店の電灯の光を後《うしろ》にして立った。こうしてさえいれば料理店から出る二人が大通りを右へ曲ろうが、左へ折れようが、または中川の角に添って連雀町《れんじゃくちょう》の方へ抜けようが、あるいは門《かど》からすぐ小路《こうじ》伝いに駿河台下《するがだいした》へ向おうが、どっちへ行こうと見逃《みのが》す気遣《きづかい》はないと彼は心丈夫に洋杖《ステッキ》を突いて、目指す家の門口《かどぐち》を見守っていた。
 彼は約十分ばかり待った後で、注意の焼点《しょうてん》になる光の中《うち》に、いっこう人影が射さないのを不審に思い始めた。やむを得ず二階を眺《なが》めてその窓だけ明るくなった奥を覗《のぞ》くように、彼らの早く席を立つ事を祈った。そうして待ち草臥《くたび》れた眼を移すごとに、屋根の上に広がる黒い空を仰いだ。今まで地面の上を照らしている人間の光ばかりに欺《あざ》むかれて、まるでその存在を忘れていたこの大きな夜は、暗い頭の上で、先刻《さっき》から寒そうな雨を醸《かも》していたらしく、敬太郎の心を佗《わ》びしがらせた。ふと考えると、今までは自分に遠慮してただの話をしていた二人が、自分の立ったのを幸いに、自分の役目として是非聞いておかなければならないような肝心《かんじん》の相談でもし始めたのではなかろうか。彼はこの疑惑と共に黒い空を仰ぎながら、そのうちに二人の向き合った姿をありありと認めた。

        三十五

 彼はあまり注意深く立ち廻って、かえって洋食店の門を早く出過ぎたのを悔《くや》んだ。けれども二人が彼に気兼《きがね》をする以上は、たとい同じ席にいつまでも根が生えたように腰を据《す》えていたところで、やっぱり普通の世間話よりほかに聞く訳には行かないのだから、よし今まで坐《すわ》ったまま動かないものと仮定しても、その結果は早く席を立ったと、ほぼ同じ事になるのだと思うと、彼は寒いのを我慢しても、同じ所に見張っているより仕方なかった。すると帽子の廂《ひさし》へ雨が二雫《ふたしずく》ほど落ちたような気がするので、彼はまた仰向《あおむ》いて黒い空を眺めた。闇《やみ》よりほかに何も眼を遮《さえ》ぎらない頭の上は、彼の立っている電車通と違って非常に静であった。彼は頬《ほお》の上に一滴《いってき》の雨を待ち受けるつもりで、久しく顔を上げたなり、恰好《かっこう》さえ分らない大きな暗いものを見つめている間《あいだ》に、今にも降り出すだろうという掛念《けねん》をどこかへ失なって、こんな落ちついた空の下にいる自分が、なぜこんな落ちつかない真似《まね》を好んでやるのだろうと偶然考えた。同時にすべての責任が自分の今突いている竹の洋杖《ステッキ》にあるような気がした。彼は例のごとく蛇《へび》の頭を握って、寒さに対する欝憤《うっぷん》を晴らすごとくに、二三度それを烈《はげ》しく振った。その時待ち佗びた人の影法師が揃《そろ》って洋食店の門口を出た。敬太郎《けいたろう》は何より先に女の細長い頸《くび》を包む白い襟巻《えりまき》に眼をつけた。二人はすぐと大通りへ出て、敬太郎の向う側を、先刻とは反対の方角に、元来た道へ引き返しにかかった。敬太郎も猶予《ゆうよ》なく向うへ渡った。彼らは緩《ゆる》い歩調で、賑《にぎ》やかに飾った店先を軒《のき》ごとに覗《のぞ》くように足を運ばした。後《うしろ》から跟《つ》いて行く敬太郎は是非共二人に釣り合った歩き方をしなければならないので、その遅過ぎるのがだいぶ苦になった。男は香《か》の高い葉巻を銜《くわ》えて、行く行く夜の中へ微《かす》かな色を立てる煙を吐いた。それが風の具合で後《うしろ》から従がう敬太郎の鼻を時々快ろよく侵《おか》した。彼はその香《にお》いを嗅《か》ぎ嗅ぎ鈍《のろ》い足並を我慢して実直にその跡を踏んだ。男は背が高いので後《うしろ》から見ると、ちょっと西洋人のように思われた。それには彼の吹かしている強い葉巻が多少|錯覚《さっかく》を助けた。すると聯想《れんそう》がたちまち伴侶《つれ》の方に移って、女が旦那《だんな》から買って貰《もら》った革《かわ》の手袋を穿《は》めている洋妾《らしゃめん》のように思われた。敬太郎がふとこういう空想を起して、おかしいと思いながらも、なお一人で興を催していると、二人は最前待ち合わした停留所の前まで来てちょっと立ちどまったが、やがてまた線路を横切って向側へ越した。敬太郎も二人のする通りを真似《まね》た。すると二人はまた美土代町《みとしろちょう》の角《かど》をこちらから反対の側へ渡った。敬太郎もつづいて同じ側へ渡った。二人はまた歩き出して南へ動いた。角から半町ばかり来ると、そこにも赤く塗った鉄の柱が一本立っていた。二人はその柱の傍《そば》へ寄って立った。彼らはまた三田線を利用して南へ、帰るか、行くか、する人だとこの時始めて気がついた敬太郎は、自分も是非同じ電車へ乗らなければなるまいと覚悟した。彼らは申し合せたように敬太郎の方を顧《かえり》みた。固《もと》より彼のいる方から電車が横町を曲って来るからではあるが、それにしても敬太郎は余り好い心持はしなかった。彼は帽子の鍔《つば》をひっくり返して、ぐっと下へおろして見たり、手で顔を撫《な》でて見たり、なるべく軒下へ身を寄せて見たり、わざと変な見当《けんとう》を眺《なが》めて見たりして、電車の現われるのをつらく待ち佗《わ》びた。
 間《ま》もなく一台来た。敬太郎はわざと二人の乗った後《あと》から這入《はい》って、嫌疑《けんぎ》を避けようと工夫した。それでしばらく後の方にぐずぐずしていると、女は例の長いコートの裾《すそ》を踏まえないばかりに引き摺《ず》って車掌台の上に足を移した。しかしあとから直《すぐ》続くと思った男は、案外|上《あが》る気色《けしき》もなく、足を揃《そろ》えたまま、両手を外套《がいとう》の隠袋《かくし》に突き差して立っていた。敬太郎は女を見送りに男がわざわざここまで足を運んだのだという事にようやく気がついた。実をいうと、彼は男よりも女の方に余計興味を持っていたのである。男と女がここで分れるとすれば、無論男を捨てて女の先途だけを見届けたかった。けれども自分が田口から依託《いたく》されたのは女と関係のない黒い中折帽《なかおれぼう》を被《かぶ》った男の行動だけなので、彼は我慢して車台に飛び上がるのを差し控えた。

        三十六

 女は車台に乗った時、ちょっと男に目礼したが、それぎり中へ這入《はい》ってしまった。冬の夜《よ》の事だから、窓硝子《まどガラス》はことごとく締《し》め切ってあった。女はことさらにそれを開けて内から首を出すほどの愛嬌《あいきょう》も見せなかった。それでも男はのっそり立って、車の動くのを待っていた。車は動き出した。二人の間に挨拶《あいさつ》の交換《やりとり》がもう必要でないと認めたごとく、電力は急いで光る窓を南の方《かた》へ運び去った。男はこの時口に銜《くわ》えた葉巻を土の上に投げた。それから足の向を変えてまた三ツ角の交叉点まで出ると、今度は左へ折れて唐物屋《とうぶつや》の前でとまった。そこは敬太郎《けいたろう》が人に突き当られて、竹の洋杖《ステッキ》を取り落した記憶の新らしい停留所であった。彼は男の後《あと》を見え隠れにここまで跟《つ》いて来て、また見たくもない唐物屋の店先に飾ってある新柄《しんがら》の襟飾《ネクタイ》だの、絹帽《シルクハット》だの、変《かわ》り縞《じま》の膝掛《ひざかけ》だのを覗《のぞ》き込みながら、こう遠慮をするようでは、探偵の興も覚《さ》めるだけだと考えた。女がすでに離れた以上、自分の仕事に飽《あき》が来たと云ってはすまないが、前《ぜん》同様であるべき窮屈の程度が急に著るしく感ぜられてならなかった。彼の依頼されたのは中折の男が小川町で降りてから二時間内の行動に限られているのだから、もうこれで偵察の役目は済んだものとして、下宿へ帰って寝ようかとも思った。
 そこへ男の待っている電車が来たと見えて、彼は長い手で鉄の棒を握るや否《いな》や瘠《や》せた身体《からだ》を体《てい》よくとまり切らない車台の上に乗せた。今まで躊躇《ちゅうちょ》していた敬太郎は急にこの瞬間を失なってはという気が出たので、すぐ同じ車台に飛び上った。車内はそれほど込みあっていなかったので、乗客は自由に互の顔を見合う余裕を充分持っていた。敬太郎は箱の中に身体を入れると同時に、すでに席を占めた五六人から一度に視線を集められた。そのうちには今|坐《すわ》ったばかりの中折の男のも交《まじ》っていたが、彼の敬太郎を見た眼のうちには、おやという認識はあったが、つけ覘《ねら》われているなという疑惑はさらに現われていなかった。敬太郎はようやく伸び伸びした心持になって、男と同じ側を択《よ》って腰を掛けた。この電車でどこへ連れて行かれる事かと思って軒先を見ると、江戸川行と黒く書いてあった。彼は男が乗り換えさえすれば、自分も早速降りるつもりで、停留所へ来るごとに男の様子を窺《うか》がった。男は始終《しじゅう》隠袋《かくし》へ手を突き込んだまま、多くは自分の正面かわが膝《ひざ》の上かを見ていた。その様子を形容すると、何にも考えずに何か考え込んでいると云う風であった。ところが九段下へかかった頃から、長い首を時々伸ばして、ある物を確かめたいように、窓の外を覗き出した。敬太郎もつい釣り込まれて、見悪《みにく》い外を透《す》かすように眺《なが》めた。やがて電車の走る響の中に、窓硝子《まどガラス》にあたって摧《くだ》ける雨の音が、ぽつりぽつりと耳元でし始めた。彼は携《たずさ》えている竹の洋杖《ステッキ》を眺めて、この代りに雨傘《あまがさ》を持って来ればよかったと思い出した。
 彼は洋食店
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