そうに掻《か》き廻した。敬太郎は見ないふりをしてわざと自分を見ているような、また耳だけに気を取られているような、田口の蹙面《しかめつら》を薄気味悪く感じた。
「実は停留所に女が一人立っていたのです」と彼はとうとう自白してしまった。
「年寄ですか、若い女ですか」
「若い女です」
「なるほど」
 田口はただ一口こう云っただけで、何とも後を継《つ》いでくれなかった。敬太郎も頓挫《とんざ》したなり言葉を途切《とぎ》らした。二人はしばらく差向いのまま口を聞かずにいた。
「いや、若かろうが年寄だろうが、その婦人の事を聞くのはよくなかった。それはあなただけに関係のある事なんでしょうから、止しにしましょう。私の方じゃただ顔に黒子《ほくろ》のある男について、研究の結果さえ伺がえばいいんだから」
「しかしその女が黒子のある人の行動に始終《しじゅう》入り込んでくるのです。第一女の方で男を待ち合わしていたのですから」
「はあ」
 田口はちょっと思いも寄らぬという顔つきをしたが、「じゃその婦人はあなたの御知合でも何でもないのですね」と聞いた。敬太郎は固《もと》より知合だと答える勇気を有《も》たなかった。きまりの悪い思いをしても、見た事も口を利《き》いた事もない女だと正直に云わなければならなかった。田口はそうですかと、穏《おだや》かに敬太郎の返事を聞いただけで、少しも追窮する気色《けしき》を見せなかったが、急に摧《くだ》けた調子になって、
「どんな女なんです。その若い婦人と云うのは。器量からいうと」と興味に充《み》ちた顔を提煙草盆《さげたばこぼん》の上に出した。
「いえ、なに、つまらない女なんです」と敬太郎は前後の行《い》きがかり上答えてしまって、実際頭の中でもつまらないような気がした。これが相手と場合しだいでは、うん器量はなかなか好い方だぐらいは固より云い兼ねなかったのである。田口は「つまらない女」という敬太郎の判断を聞いて、たちまち大きな声を出して笑った。敬太郎にはその意味がよく解らなかったけれども、何でも頭の上で大濤《おおなみ》が崩れたような心持がして、幾分か顔が熱くなった。
「よござんす、それで。――それからどうしました。女が停留所で待ち合わしているところへ男が来て」
 田口はまた普通の調子に戻って、真面目《まじめ》に事件の経過を聞こうとした。実をいうと敬太郎は自分がこれから話す顛末《てんまつ》を、どうして握る事ができたかの苦心談を、まず冒頭に敷衍《ふえん》して、二つある同じ名の停留所の迷った事から、不思議な謎《なぞ》の活《い》きて働らく洋杖《ステッキ》を、どう抱《かか》え出して、どう利用したかに至るまでを、自分の手柄《てがら》のなるべく重く響くように、詳しく述べたかったのであるが、会うや否《いな》や四時と五時とのいきさつでやられた上に、勝手に見張りの時間を延ばした源因になる例の女が、源因にも何にもならない見ず知らずの女だったりした不味《まず》いところがあるので、自分を広告する勇気は全く抜けていた。それで男と女が洋食屋へ入ってから以後の事だけをごく淡泊《あっさ》り話して見ると、宅《うち》を出る時自分が心配していた通り、少しも捕《つら》まえどころのない、あたかも灰色の雲を一握り田口の鼻の先で開いて見せたと同じような貧しい報告になった。

        四

 それでも田口は別段|厭《いや》な顔も見せなかった。落ちついた腕組をしまいまで解かずに、ただふんとか、なるほどとか、それからとか云う繋《つな》ぎの言葉を、時々|敬太郎《けいたろう》のために投げ込んでくれるだけであった。その代り報告の結末が来ても、まだ何か予期しているように、今までの態度を容易に変えなかった。敬太郎は仕方なしに、「それだけです。実際つまらない結果で御気の毒です」と言訳をつけ加えた。
「いやだいぶ参考になりました。どうも御苦労でした。なかなか骨が折れたでしょう」
 田口のこの挨拶《あいさつ》の中《うち》に、大した感謝の意を含んでいない事は無論であったが、自分が馬鹿に見えつつある今の敬太郎にはこれだけの愛嬌《あいきょう》が充分以上に聞こえた。彼は辛うじて恥を掻《か》かずにすんだという安心をこの時ようやく得た。同時に垂味《たるみ》のできた気分が、すぐ田口に向いて働らきかけた。
「いったいあの人は何なんですか」
「さあ何でしょうか。あなたはどう鑑定しました」
 敬太郎の前には黒の中折《なかおれ》を被《かぶ》って、襟開《えりあき》の広い霜降《しもふり》の外套《がいとう》を着[#「着」は底本では「来」]た男の姿がありありと現われた。その人の様子といい言葉遣《ことばづか》いといい歩きつきといい、何から何まで判切《はっきり》見えたには見えたが、田口に対する返事は一口も出て来なかった。
「どうも分りません」
「じゃ性質はどんな性質でしょう」
 性質なら敬太郎にもほぼ見当《けんとう》がついていた。「穏《おだ》やかな人らしく思いました」と観察の通りを答えた。
「若い女と話しているところを見て、そう云うんじゃありませんか」
 こう云った時、田口の唇《くちびる》の角に薄笑の影がちらついているのを認めた敬太郎は、何か答えようとした口をまた塞《ふさ》いでしまった。
「若い女には誰でも優《やさ》しいものですよ。あなただって満更《まんざら》経験のない事でもないでしょう。ことにあの男と来たら、人一倍そうなのかも知れないから」と田口は遠慮なく笑い出した。けれども笑いながらちゃんと敬太郎の上に自分の眼を注いでいた。敬太郎は傍《はた》で自分を見たらさぞ気の利《き》かない愚物《ぐぶつ》になっているんだろうと考えながらも、やっぱり苦しい思いをして田口と共に笑わなければいられなかった。
「じゃ女は何物なんでしょう」
 田口はここで観察点を急に男から女へ移した。そうして今度は自分の方で敬太郎にこういう質問を掛けた。敬太郎はすぐ正直に「女の方は男よりもなお分り悪《にく》いです」と答えてしまった。
「素人《しろうと》だか黒人《くろうと》だか、大体の区別さえつきませんか」
「さよう」と云いながら、敬太郎はちょっと考がえて見た。革《かわ》の手袋だの、白い襟巻《えりまき》だの、美くしい笑い顔だの、長いコートだの、続々記憶の表面に込み上げて来たが、それを綜括《すべくく》ったところでどこからもこの問に応ぜられるような要領は得られなかった。
「割合に地味なコートを着て、革の手袋を穿《は》めていましたが……」
 女の身に着けた品物の中《うち》で、特に敬太郎の注意を惹《ひ》いたこの二点も、田口には何の興味も与えないらしかった。彼はやがて真面目《まじめ》な顔をして、「じゃ男と女の関係について何か御意見はありませんか」と聞き出した。
 敬太郎は先刻《さっき》自分の報告が滞《とどこお》りなく済んだ証拠《しょうこ》に、御苦労さまと云う謝辞さえ受けた後《あと》で、こう難問が続発しようとは毫《ごう》も思いがけなかった。しかも窮しているせいか、それが順をおってだんだんむずかしい方へ競《せ》り上《あが》って行くように感ぜられてならなかった。田口は敬太郎の行きづまった様子を見て、再び同じ問をほかの言葉で説明してくれた。
「例えば夫婦だとか、兄弟《きょうだい》だとか、またはただの友達だとか、情婦《いろ》だとかですね。いろいろな関係があるうちで何だと思いますか」
「私も女を見た時に、処女だろうか細君だろうかと考えたんですが……しかしどうも夫婦じゃないように思います」
「夫婦でないにしてもですね。肉体上の関係があるものと思いますか」

        五

 敬太郎《けいたろう》の胸にもこの疑《うたがい》は最初から多少|萌《きざ》さないでもなかった。改ためて自分の心を解剖して見たら、彼ら二人の間に秘密の関係がすでに成立しているという仮定が遠くから彼を操《あやつ》って、それがために偵察《ていさつ》の興味が一段と鋭どく研《と》ぎ澄まされたのかも知れなかった。肉と肉の間に起るこの関係をほかにして、研究に価する交渉は男女《なんにょ》の間に起り得るものでないと主張するほど彼は理論家ではなかったが、暖たかい血を有《も》った青年の常として、この観察点から男女《なんにょ》を眺《なが》めるときに、始めて男女らしい心持が湧《わ》いて来るとは思っていたので、なるべくそこを離れずに世の中を見渡したかったのである。年の若い彼の眼には、人間という大きな世界があまり判切《はっきり》分らない代りに、男女という小さな宇宙はかく鮮《あざ》やかに映った。したがって彼は大抵の社会的関係を、できるだけこの一点まで切落して楽んでいた。停留所で逢った二人の関係も、敬太郎の気のつかない頭の奥では、すでにこういう一対《いっつい》の男女として最初から結びつけられていたらしかった。彼はまたその背後に罪悪を想像して要もないのに恐れを抱《いだ》くほどの道徳家でもなかった。彼は世間並な道義心の所有者としてありふれた人間の一人《いちにん》であったけれども、その道義心は彼の空想力と違って、いざという場合にならなければ働らかないのを常とするので、停留所の二人を自分に最も興味のある男女関係に引き直して見ても、別段不愉快にはならずにすんだのである。彼はただ年齢《とし》の上において二人の相違の著るしいのを疑ぐった。が、また一方ではその相違がかえって彼の眼に映ずる「男女の世界」なるものの特色を濃く示しているようにも見えた。
 彼の二人に対する心持は知らず知らずの間にこう弛《ゆる》んでいたのだが、いよいよそうかと正式に田口から質問を掛けられて見ると、断然とした返答は、責任のあるなしにかかわらず、纏《まと》まった形となって頭の中には現われ悪《にく》かった。それでこう云った。――
「肉体上の関係はあるかも知れませんが、無いかも分りません」
 田口はただ微笑した。そこへ例の袴《はかま》を穿《は》いた書生が、一枚の名刺を盆に載《の》せて持って来た。田口はちょっとそれを受取ったまま、「まあ分らないところが本当でしょう」と敬太郎に答えたが、すぐ書生の方を見て、「応接間へ通しておいて……」と命令した。先刻《さっき》からよほど窮していた矢先だから、敬太郎はこの来客を好い機《しお》に、もうここで切り上げようと思って身繕《みづくろ》いにかかると、田口はわざわざ彼の立たない前にそれを遮《さえ》ぎった。そうして敬太郎の辟易《へきえき》するのに頓着《とんじゃく》なくなお質問を進行させた。そのうちで敬太郎の明瞭《めいりょう》に答えられるのはほとんど一カ条もなかったので、彼は大学で受けた口答試験の時よりもまだ辛《つら》い思いをした。
「じゃこれぎりにしますが、男と女の名前は分りましたろう」
 田口の最後と断《ことわ》ったこの問に対しても、敬太郎は固《もと》より満足な返事を有《も》っていなかった。彼は洋食店で二人の談話に注意を払う間にも何々さんとか何々子とかあるいは御何《おなに》とかいう言葉がきっとどこかへ交《まじ》って来るだろうと心待に待っていたのだが、彼らは特にそれを避ける必要でもあるごとくに、御互の名はもちろん、第三者の名もけっして引合にさえ出さなかったのである。
「名前も全く分りません」
 田口はこの答を聞いて、手焙《てあぶり》の胴に当てた手を動かしながら、拍子《ひょうし》を取るように、指先で桐《きり》の縁《ふち》を敲《たた》き始めた。それをしばらくくり返した後《あと》で、「どうしたんだか余《あん》まり要領を得ませんね」と云ったが、直《すぐ》言葉を継《つ》いで、「しかしあなたは正直だ。そこがあなたの美点だろう。分らない事を分ったように報告するよりもよっぽど好いかも知れない。まあ買えばそこを買うんですね」と笑い出した。敬太郎は自分の観察が、はたして実用に向かなかったのを発見して、多少わが迂闊《うかつ》に恥じ入る気も起ったが、しかしわずか二三時間の注意と忍耐と推測では、たとい自分より十層倍行き届いた人間に代理を頼んだところで、田口を満足させるような結果は得
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