男がある。それは黒の中折《なかおれ》に霜降《しもふり》の外套《がいとう》を着て、顔の面長《おもなが》い背の高い、瘠《や》せぎすの紳士で、眉《まゆ》と眉の間に大きな黒子《ほくろ》があるからその特徴を目標《めじるし》に、彼が電車を降りてから二時間以内の行動を探偵して報知しろというだけであった。敬太郎は始めて自分が危険なる探偵小説中に主要の役割を演ずる一個の主人公のような心持がし出した。同時に田口が自己の社会的利害を護《まも》るために、こんな暗がりの所作《しょさ》をあえてして、他日の用に、他《ひと》の弱点を握っておくのではなかろうかと云う疑《うたがい》を起した。そう思った時、彼は人の狗《いぬ》に使われる不名誉と不徳義を感じて、一種|苦悶《くもん》の膏汗《あぶらあせ》を腋《わき》の下に流した。彼は手紙を手にしたまま、じっと眸《ひとみ》を据《す》えたなり固くなった。しかし須永の母から聞いた田口の性格と、自分が直《じか》に彼に会った時の印象とを纏《まと》めて考えて見ると、けっしてそんな人の悪そうな男とも思われないので、たとい他人の内行《ないこう》に探《さぐ》りを入れるにしたところで、必ずしもそれほど下品な料簡《りょうけん》から出るとは限らないという推断もついて見ると、いったん硬直《こうちょく》になった筋肉の底に、また温《あた》たかい血が通《かよ》い始めて、徳義に逆らう吐気《むかつき》なしに、ただ興味という一点からこの問題を面白く眺《なが》める余裕《よゆう》もできてきた。それで世の中に接触する経験の第一着手として、ともかくも田口から依頼された通りにこの仕事をやり終《おお》せて見ようという気になった。彼はもう一度とくと田口の手紙を読み直した。そうしてそこに書いてある特徴と条件だけで、はたして満足な結果が実際に得られるだろうかどうかを確かめた。
二十二
田口から知らせて来た特徴のうちで、本当にその人の身を離れないものは、眉《まゆ》と眉の間の黒子《ほくろ》だけであるが、この日の短かい昨今の、四時とか五時とかいう薄暗い光線の下《もと》で、乗降《のりおり》に忙がしい多数の客の中《うち》から、指定された局部の一点を目標《めじるし》に、これだと思う男を過《あやま》ちなく見つけ出そうとするのは容易の事ではない。ことに四時と五時の間と云えば、ちょうど役所の退《ひ》ける刻限なので、丸の内からただ一筋の電車を利用して、神田橋を出る役人の数《かず》だけでも大したものである。それにほかと違って停留所が小川町だから、年の暮に間もない左右の見世先《みせさき》に、幕だの楽隊だの、蓄音機だのを飾るやら具《そな》えるやらして、電灯以外の景気を点《つ》けて、不時の客を呼び寄せる混雑も勘定《かんじょう》に入れなければなるまい。それを想像して事の成否を考えて見ると、とうてい一人の手際《てぎわ》ではという覚束《おぼつか》ない心持が起って来る。けれどもまた尋ね出そうとするその人が、霜降《しもふり》の外套《がいとう》に黒の中折《なかおれ》という服装《いでたち》で電車を降りるときまって見れば、そこにまだ一縷《いちる》の望があるようにも思われる。無論霜降の外套だけでは、どんな恰好《かっこう》にしろ手がかりになり様《よう》はずがないが、黒の中折を被《かぶ》っているなら、色変りよりほかに用いる人のない今日《こんにち》だから、すぐ眼につくだろう。それを目宛《めあて》に注意したらあるいは成功しないとも限るまい。
こう考えた敬太郎は、ともかくも停留所まで行って見る事だという気になった。時計を眺《なが》めると、まだ一時を打ったばかりである。四時より三十分前に向《むこう》へ着くとしたところで、三時頃から宅《うち》を出ればたくさんなのだから、まだ二時間の猶予《ゆうよ》がある。彼はこの二時間を最も有益に利用するつもりで、じっとしたまま坐っていた。けれどもただ眼の前に、美土代町《みとしろちょう》と小川町が、丁字《ていじ》になって交叉している三つ角の雑沓《ざっとう》が入り乱れて映るだけで、これと云って成功を誘《いざな》うに足る上分別《じょうふんべつ》は浮ばなかった。彼の頭は考えれば考えるほど、同じ場所に吸いついたなりまるで動くことを知らなかった。そこへ、どうしても目指す人には会えまいという掛念《けねん》が、不安を伴って胸の中をざわつかせた。敬太郎はいっその事時間が来るまで外を歩きつづけに歩いて見ようかと思った。そう決心をして、両手を机の縁《ふち》に掛けて、勢よく立ち上がろうとする途端《とたん》に、この間浅草で占《うら》ないの婆さんから聞いた、「近い内に何か事があるから、その時にはこうこういうものを忘れないようにしろ」という注意を思い出した。彼は婆さんのその時の言葉を、解すべからざる謎《なぞ》として、ほとんど頭の外へ落してしまったにもかかわらず、参考のためわざわざ書きつけにして机の抽出《ひきだし》に入れておいた。でまたその紙片《かみぎれ》を取り出して、自分のようで他人《ひと》のような、長いようで短かいような、出るようで這入《はい》るようなという句を飽《あ》かず眺《なが》めた。初めのうちは今まで通りとうてい意味のあるはずがないとしか見えなかったが、だんだん繰り返して読むうちに、辛抱強く考えさえすれば、こういう妙な特性を有《も》ったものがあるいは出て来るかも知れないという気になった。その上敬太郎は婆さんに、自分が持っているんだから、いざという場合に忘れないようになさいと注意されたのを覚えていたので、何でも好い、ただ身の周囲《まわり》の物から、自分のようで他人《ひと》のような、長いようで短かいような、出るようで這入《はい》るようなものを探《さが》しあてさえすれば、比較的狭い範囲内で、この問題を解決する事ができる訳になって、存外早く片がつくかも知れないと思い出した。そこでわが自由になるこれから先の二時間を、全くこの謎《なぞ》を解くための二時間として大切に利用しようと決心した。
ところがまず眼の前の机、書物、手拭《てぬぐい》、座蒲団《ざぶとん》から順々に進行して行李《こうり》鞄《かばん》靴下《くつした》までいったが、いっこうそれらしい物に出合わないうちに、とうとう一時間経ってしまった。彼の頭は焦燥《いらだ》つと共に乱れて来た。彼の観念は彼の室《へや》の中を駆《か》け廻《めぐ》って落ちつけないので、制するのも聞かずに、戸外へ出て縦横に走った。やがて彼の前に、霜降《しもふり》の外套《がいとう》を着た黒の中折を被《かぶ》った背の高い瘠《やせ》ぎすの紳士が、彼のこれから探そうというその人の権威を具《そな》えて、ありありと現われた。するとその顔がたちまち大連にいる森本の顔になった。彼はだらしのない髯《ひげ》を生《は》やした森本の容貌《ようぼう》を想像の眼で眺《なが》めた時、突然電流に感じた人のようにあっと云った。
二十三
森本の二字はとうから敬太郎《けいたろう》の耳に変な響を伝える媒介《なかだち》となっていたが、この頃ではそれが一層高じて全然一種の符徴《ふちょう》に変化してしまった。元からこの男の名前さえ出ると、必ず例の洋杖《ステッキ》を聯想《れんそう》したものだが、洋杖が二人を繋《つな》ぐ縁に立っていると解釈しても、あるいは二人の中を割《さ》く邪魔に挟《はさ》まっていると見傚《みな》しても、とにかく森本とこの竹の棒の間にはある距離《へだたり》があって、そう一足飛《いっそくとび》に片方から片方へ移る訳に行かなかったのに、今ではそれが一つになって、森本と云えば洋杖、洋杖と云えば森本というくらい劇《はげ》しく敬太郎の頭を刺戟《しげき》するのである。その刺戟を受けた彼の頭に、自分の所有のようなまた森本の所有のような、持主のどっちとも片づかないという観念が、熱《ほて》った血に流されながら偶然浮び上った時、彼はああこれだと叫んで、乱れ逃げる黒い影の内から、その洋杖だけをうんと捕《つか》まえたのである。
「自分のような他人《ひと》のような」と云った婆さんの謎《なぞ》はこれで解けたものと信じて、敬太郎は一人嬉しがった。けれどもまだ「長いような短かいような、出るような這入《はい》るような」というところまでは考えて見ないので、彼はあまる二カ条の特性をも等しくこの洋杖の中《うち》から探《さが》し出そうという料簡《りょうけん》で、さらに新たな努力を鼓舞《こぶ》してかかった。
始めは見方一つで長くもなり短かくもなるくらいの意味かも知れないと思って、先へ進んで見たが、それでは余り平凡過ぎて、解釈がついたもつかないも同じ事のような心持がした。そこでまた後戻りをして、「長いような短かいような」という言葉を幾度《いくたび》か口の内でくり返しながら思案した。が、容易に解決のできる見込は立たなかった。時計を見ると、自由に使っていい二時間のうちで、もう三十分しか残っていない。彼は抜裏《ぬけうら》と間違えて袋の口へ這入《はい》り込んだ結果、好んで行き悩みの状態に悶《もだ》えているのでは無かろうかと、自分で自分の判断を危ぶみ出した。出端《では》のない行きどまりに立つくらいなら、もう一遍引き返して、新らしい途《みち》を探す方がましだとも考えた。しかしこう時間が逼《せま》っているのに、初手《しょて》から出直しては、とても間に合うはずがない、すでにここまで来られたという一部分の成功を縁喜《えんぎ》にして、是非先へ突き抜ける方が順当だとも考えた。これがよかろうあれがよかろうと右左に思い乱れている中に、彼の想像はふと全体としての杖《つえ》を離れて、握りに刻まれた蛇《へび》の頭に移った。その瞬間に、鱗《うろこ》のぎらぎらした細長い胴と、匙《さじ》の先に似た短かい頭とを我知らず比較して、胴のない鎌首《かまくび》だから、長くなければならないはずだのに短かく切られている、そこがすなわち長いような短かいような物であると悟った。彼はこの答案を稲妻《いなずま》のごとく頭の奥に閃《ひら》めかして、得意の余り踴躍《こおどり》した。あとに残った「出るような這入《はい》るような」ものは、大した苦労もなく約五分の間に解けた。彼は鶏卵《たまご》とも蛙《かえる》とも何とも名状しがたい或物が、半《なか》ば蛇の口に隠れ、半ば蛇の口から現われて、呑《の》み尽されもせず、逃《のが》れ切りもせず、出るとも這入るとも片のつかない状態を思い浮かべて、すぐこれだと判断したのである。
これで万事が綺麗《きれい》に解決されたものと考えた敬太郎は、躍《おど》り上るように机の前を離れて、時計の鎖を帯に絡《から》んだ。帽子は手に持ったまま、袴《はかま》も穿《は》かずに室《へや》を出ようとしたが、あの洋杖《ステッキ》をどうして持って出たものだろうかという問題がちょっと彼を躊躇《ちゅうちょ》さした。あれに手を触れるのは無論、たとい傘入《かさいれ》から引き出したところで、森本が置き去りにして行ってからすでに久しい今日《こんにち》となって見れば、主人に断わらないにしろ、咎《とが》められたり怪しまれたりする気遣《きづかい》はないにきまっているが、さて彼らが傍《そば》にいない時、またおるにしても見ないうちに、それを提《さ》げて出ようとするには相当の思慮か準備が必要になる。迷信のはびこる家庭に成長した敬太郎は、呪禁《まじない》に使う品物を(これからその目的に使うんだという料簡《りょうけん》があって)手に入れる時には、きっと人の見ていない機会を偸《ぬす》んでやらなければ利《き》かないという言い伝えを、郷里《くに》にいた頃、よく母から聞かされていたのである。敬太郎は宿の上り口の正面にかけてある時計を見るふりをして、二階の梯子段《はしごだん》の中途まで降りて下の様子を窺《うか》がった。
二十四
主人は六畳の居間に、例の通り大きな瀬戸物の丸火鉢《まるひばち》を抱《かか》え込んでいた。細君の姿はどこにも見えなかった。敬太郎《けいたろう》が梯子段の中途で、及び腰をして、硝子
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