たけれども、これだけで帰るのも少し物足りなかった。婆さんの云う事が、まるで自分の胸とかけ隔《へだ》たった別世界の消息なら、固《もと》より論はないが、意味の取り方ではだいぶ自分の今の身の上に、応用の利《き》く点もあるので、敬太郎はそこに微《かす》かな未練を残した。
「もう何にも伺がう事はありませんか」
「そうですね。近い内にちょっとした事ができるかも知れません」
「災難ですか」
「災難でもないでしょうが、気をつけないとやり損《そこ》ないます。そうしてやり損なえばそれっきり取り返しがつかない事です」

        十九

 敬太郎《けいたろう》の好奇心は少し鋭敏になった。
「全体どんな性質《たち》の事ですか」
「それは起って見なければ分りません。けれども盗難だの水難だのではないようです」
「じゃどうして失敗《しくじ》らない工夫をして好いか、それも分らないでしょうね」
「分らない事もありませんが、もし御望みなら、もう一遍|占《うら》ないを立て直して見て上げても宜《よ》うござんす」
 敬太郎は、では御頼み申しますと云わない訳に行かなかった。婆さんはまた繊細《きゃしゃ》な指先を小器用に動かして、例の文銭を並べ更《か》えた。敬太郎から云えば先《せん》の並べ方も今度の並べ方も大抵似たものであるが、婆さんにはそこに何か重大の差別があるものと見えて、その一枚を引っくり返すにも軽率に手は下さなかった。ようやく九枚をそれぞれ念入に片づけた後《あと》で、婆さんは敬太郎に向って「大体分りました」と云った。
「どうすれば好いんですか」
「どうすればって、占ないには陰陽《いんよう》の理で大きな形が現われるだけだから、実地は各自《めいめい》がその場に臨んだ時、その大きな形に合わして考えるほかありませんが、まあこうです。あなたは自分のようなまた他人《ひと》のような、長いようなまた短かいような、出るようなまた這入《はい》るようなものを待っていらっしゃるから、今度事件が起ったら、第一にそれを忘れないようになさい。そうすれば旨《うま》く行きます」
 敬太郎は煙《けむ》に巻かれざるを得なかった。いくら大きな形が陰陽の理で現われたにしたところで、これじゃ方角さえ立たない霧《きり》のようなものだから、たとい嘘《うそ》でも本当でも、もう少し切りつめた応用の利くところを是非云わせようと思って、二三押問答をして見たが、いっこう埒《らち》が明かなかった。敬太郎はとうとうこの禅坊主の寝言《ねごと》に似たものを、手拭《てぬぐい》に包《くる》んだ懐炉《かいろ》のごとく懐中させられて表へ出た。おまけに出がけに七色唐辛子《なないろとうがらし》を二袋買って袂《たもと》へ入れた。
 翌日彼は朝飯《あさはん》の膳《ぜん》に向って、煙の出る味噌汁椀《みそしるわん》の蓋《ふた》を取ったとき、たちまち昨日《きのう》の唐辛子を思い出して、袂《たもと》から例の袋を取り出した。それを十二分に汁《しる》の上に振りかけて、ひりひりするのを我慢しながら食事を済ましたが、婆さんの云わゆる「陰陽の理によって現われた大きな形」と頭の中に呼び起して見ると、まだ漠然《ばくぜん》と瓦斯《ガス》のごとく残っていた。しかし手のつけようのない謎《なぞ》に気を揉《も》むほど熱心な占《うら》ない信者でもないので、彼はどうにかそれを解釈して見たいと焦心《あせ》る苦悶《くもん》を知らなかった。ただその分らないところに妙な趣《おもむき》があるので、忘れないうちに、婆さんの云った通りを紙片《かみぎれ》に書いて机の抽出《ひきだし》へ入れた。
 もう一遍田口に会う手段を講じて見る事の可否は、昨日《きのう》すでに婆さんの助言《じょごん》で断定されたものと敬太郎は解釈した。けれども彼は占ないを信じて動くのではない、動こうとする矢先へ婆さんが動く縁をつけてくれたに過ぎないのだと思った。彼は須永《すなが》へ行って彼の叔父がすでに大阪から帰ったかどうか尋ねて見ようかと考えたが、自動車事件の記憶がまだ新たに彼の胸を圧迫しているので、足を運ぶ勇気がちょっと出なかった。電話もこの際利用しにくかった。彼はやむを得ず、手紙で用を弁ずる事にした。彼はせんだって須永の母に話したとほぼ同様の顛末《てんまつ》を簡略に書いた後で、田口がもう旅行から帰ったかどうかを聞き合わせて、もし帰ったなら御多忙中はなはだ恐れ入るけれども、都合して会ってくれる訳には行くまいか、こっちはどうせ閑《ひま》な身体《からだ》だから、いつでも指定されて時日に出られるつもりだがと、この間の権幕《けんまく》は、綺麗《きれい》に忘れたような口ぶりを見せた。敬太郎はこの手紙を出すと同時に、須永の返事を明日にも予想した。ところが二日立っても三日立っても何の挨拶《あいさつ》もないので、少し不安の念に悩まされ出した。なまじい売卜者《うらないしゃ》の言葉などに動かされて、恥を掻《か》いてはつまらないという後悔も交《まじ》った。すると四日目の午前になって、突然田口から電話口へ呼び出された。

        二十

 電話口へ出て見ると案外にも主人の声で、今|直《すぐ》来る事ができるかという簡単な問い合わせであった。敬太郎《けいたろう》はすぐ出ますと答えたが、それだけで電話を切るのは何となくぶっきらぼう過ぎて愛嬌《あいきょう》が足りない気がするので、少し色を着けるために、須永《すなが》君から何か御話でもございましたかと聞いて見た。すると相手は、ええ市蔵から御希望を通知して来たのですが、手数《てかず》だから直接に私の方で御都合を伺がいました。じゃ御待ち申しますから、直どうぞ。と云ってそれなり引込《ひっこ》んでしまった。敬太郎はまた例の袴《はかま》を穿《は》きながら、今度こそ様子が好さそうだと思った。それからこの間買ったばかりの中折《なかおれ》を帽子掛から取ると、未来に富んだ顔に生気を漲《みな》ぎらして快豁《かいかつ》に表へ出た。外には白い霜《しも》を一度に摧《くだ》いた日が、木枯《こがら》しにも吹き捲《ま》くられずに、穏《おだ》やかな往来をおっとりと一面に照らしていた。敬太郎はその中を突切《つっき》る電車の上で、光を割《さ》いて進むような感じがした。
 田口の玄関はこの間と違って蕭条《ひっそ》りしていた。取次《とりつぎ》に袴を着けた例の書生が現われた時は、少しきまりが悪かったが、まさかせんだっては失礼しましたとも云えないので、素知らぬ顔をして叮嚀《ていねい》に来意を告げた。書生は敬太郎を覚えていたのか、いないのか、ただはあと云ったなり名刺を受取って奥へ這入《はい》ったが、やがて出て来て、どうぞこちらへと応接間へ案内した。敬太郎は取次の揃《そろ》えてくれた上靴《スリッパー》を穿《は》いて、御客らしく通るには通ったが、四五脚ある椅子のどれへ腰をかけていいかちょっと迷った。一番小さいのにさえきめておけば間違はあるまいという謙遜《けんそん》から、彼は腰の高い肱懸《ひじかけ》も装飾もつかない最も軽そうなのを択《よ》って、わざと位置の悪い所へ席を占めた。
 やがて主人が出て来た。敬太郎は使い慣れない切口上を使って、初対面の挨拶《あいさつ》やら会見の礼やらを述べると、主人は軽くそれを聞き流すだけで、ただはあはあと挨拶《あいさつ》した。そうしていくら区切が来ても、いっこう何とも云ってくれなかった。彼は主人の態度に失望するほどでもなかったが、自分の言葉がそう思う通り長く続かないのに弱った。一応頭の中にある挨拶を出し切ってしまうと、後はそれぎりで、手持無沙汰《てもちぶさた》と知りながら黙らなければならなかった。主人は巻莨入《まきたばこいれ》から敷島《しきしま》を一本取って、あとを心持敬太郎のいる方へ押しやった。
「市蔵からあなたの御話しは少し聞いた事もありますが、いったいどういう方を御希望なんですか」
 実を云うと、敬太郎には何という特別の希望はなかった。ただ相当の位置さえ得られればとばかり考えていたのだから、こう聞かれるとぼんやりした答よりほかにできなかった。
「すべての方面に希望を有《も》っています」
 田口は笑い出した。そうして機嫌《きげん》の好い顔つきをして、学士の数《かず》のこんなに殖《ふ》えて来た今日《こんにち》、いくら世話をする人があろうとも、そう最初から好い地位が得られる訳のものでないという事情を懇《ねん》ごろに説いて聞かせた。しかしそれは田口から改めて教わるまでもなく、敬太郎のとうから痛切に承知しているところであった。
「何でもやります」
「何でもやりますったって、まさか鉄道の切符切もできないでしょう」
「いえできます。遊んでるよりはましですから。将来の見込のあるものなら本当に何でもやります。第一遊んでいる苦痛を逃《のが》れるだけでも結構です」
「そう云う御考ならまた私の方でもよく気をつけておきましょう。直《すぐ》という訳にも行きますまいが」
「どうぞ。――まあ試しに使って見て下さい。あなたの御家《おうち》の――と云っちゃ余り変ですが、あなたの私事《わたくしごと》にででもいいから、ちょっと使って見て下さい」
「そんな事でもして見る気がありますか」
「あります」
「それじゃ、ことに依ると何か願って見るかも知れません。いつでも構いませんか」
「ええなるべく早い方が結構です」
 敬太郎はこれで会見を切り上げて、朗らかな顔をして表へ出た。

        二十一

 穏《おだ》やかな冬の日がまた二三日続いた。敬太郎《けいたろう》は三階の室《へや》から、窓に入る空と樹と屋根瓦《やねがわら》を眺《なが》めて、自然を橙色《だいだいいろ》に暖ためるおとなしいこの日光が、あたかも自分のために世の中を照らしているような愉快を覚えた。彼はこの間の会見で、自分に都合の好い結果が、近い内にわが頭の上に落ちて来るものと固く信ずるようになった。そうしてその結果がどんな異様の形を装《よそお》って、彼の前に現われるかを、彼は最も楽しんで待ち暮らした。彼が田口に依頼した仕事のうちには、普通の依頼者の申《もう》し出《いで》以上のものまで含んでいた。彼は一定の職業から生ずる義務を希望したばかりでなく、刺戟《しげき》に充《み》ちた一時性の用事をも田口から期待した。彼の性質として、もし成効の影が彼を掠《かす》めて閃《ひら》めくならば、おそらく尋常の雑務とは切り離された特別の精彩を帯びたものが、卒然彼の前に投げ出されるのだろうぐらいに考えた。そんな望を抱いて、彼は毎日美くしい日光に浴していたのである。
 すると四日ばかりして、また田口から電話がかかった。少し頼みたい事ができたが、わざわざ呼び寄せるのも気の毒だし、電話では手間が要《い》ってかえって面倒になるし、仕方がないから、速達便で手紙を出す事にしたから、委細《いさい》はそれを見て承知してくれ。もし分らない事があったら、また電話で聞き合わしてもいいという通知であった。敬太郎はぼんやり見えていた遠眼鏡《とおめがね》の度がぴたりと合った時のように愉快な心持がした。
 彼は机の前を一寸《いっすん》も離れずに、速達便の届くのを待っていた。そうしてその間絶ず例の想像を逞《たく》ましくしながら、田口のいわゆる用事なるものを胸の中で組み立てて見た。そこにはいつか須永《すなが》の門前で見た後姿の女が、ややともすると断わりなしに入り込んで来た。ふと気がついて、もっと実際的のものであるべきはずだと思うと、その時だけは自分で自分の空想を叱るようにしては、彼はもどかしい時を過ごした。
 やがて待ち焦《こが》れた状袋が彼の手に落ちた。彼はすっと音をさせて、封を裂いた。息も継《つ》がずに巻紙の端《はし》から端までを一気に読み通して、思わずあっという微《かす》かな声を揚げた。与えられた彼の用事は待ち設けた空想よりもなお浪漫的《ロマンチック》であったからである。手紙の文句は固《もと》より簡単で用事以外の言葉はいっさい書いてなかった。今日四時と五時の間に、三田方面から電車に乗って、小川町の停留所で下りる四十|恰好《かっこう》の
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