「どうしてどうしてそれで悪かった日にゃ僕なんざあ」
 森本は自分で自分の腹をポンポン叩《たた》いて見せた。その腹は凹《へこ》んで背中の方へ引《ひっ》つけられてるようであった。
「何しろ商売が商売だから身体は毀《こわ》す一方ですよ。もっとも不養生もだいぶやりましたがね」と云った後で、急に思い出したようにアハハハと笑った。敬太郎はそれに調子を合せる気味で、
「今日は僕も閑《ひま》だから、久しぶりでまたあなたの昔話でも伺いましょうか」と云った。すると森本は、
「ええ話しましょう」とすぐ乗気な返事をしたが、活溌《かっぱつ》なのはただ返事だけで、挙動の方は緩慢《かんまん》というよりも、すべての筋肉が湯に※[#「火+蝶のつくり」、第3水準1−87−56]《う》でられた結果、当分|作用《はたらき》を中止している姿であった。
 敬太郎が石鹸《シャボン》を塗《つ》けた頭をごしごしいわしたり、堅い足の裏や指の股を擦《こす》ったりする間、森本は依然として胡座をかいたまま、どこ一つ洗う気色《けしき》は見えなかった。最後に瘠《や》せた一塊《ひとかたまり》の肉団をどぶりと湯の中に抛《ほう》り込むように浸《つ》け
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