下さるという事ですが、これは影も形も見えないようですから、頂きません。ただ御礼だけ申し述べておきます。それから」とつづけておいて、また筆を休めた。
敬太郎はいよいよ洋杖《ステッキ》のところへ来たのである。根が正直な男だから、あの洋杖はせっかくの御覚召《おぼしめし》だから、ちょうだいして毎日散歩の時突いて出ますなどと空々しい嘘《うそ》は吐《つ》けず、と言って御親切はありがたいが僕は貰いませんとはなおさら書けず。仕方がないから、「あの洋杖はいまだに傘入《かさいれ》の中に立っています。持主の帰るのを毎日毎夜待ち暮しているごとく立っています。雷獣もあの蛇の頭へは手を触れる事をあえてしません。僕はあの首を見るたびに、彫刻家としてのあなたの手腕に敬服せざるを得ないです」と好加減《いいかげん》な御世辞《おせじ》を並べて、事実を暈《ぼか》す手段とした。
状袋へ名宛を書くときに、森本の名前を思い出そうとしたが、どうしても胸に浮ばないので、やむを得ず大連電気公園内娯楽掛り森本様とした。今までの関係上主人夫婦の眼を憚《はば》からなければならない手紙なので、下女を呼んでポストへ入れさせる訳にも行かなかった
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